2010-11-21京都アカデメイアの「公開討論」に行った。
今日(11月21日日曜日)は京都アカデメイアが京大構内で主催する「公開討論」に行った。教室には70〜80名程度の人数が集まり、講壇上に七、八名(途中入れ換わりがあった)のパネラーが座って意見を述べるというかたち。休憩を挟んで3時間半強の話し合いだった。会場との「質疑応答」を期待していたのだが、事前に配布された質問用紙に書いておいて後から回収して選別の上回答といった「パンキョー*1」形式で、私の当初の目的は達成されなかった。話の筋道が大体みえているよーな議論を一方的に聞かされて、私は苦痛だった。
このイベントについての詳細は下記参照。
http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/nf.html
togetterまとめ
http://togetter.com/li/71181
話としては、前半が大学はこれからどうなるのか、「教養」ないしは「リベラル・アーツ」はこれからどうなるのかという話、後半が大学以外で、あるいは卒業後も学問はできるのか、という話だった。
大学の外にいる立場から言わせて頂くと、前半の話は「大学がどうなろうと私の知ったことではない」と思い、後半については「やりたい奴はやれる程度にやるだろう」というだけである。
また、全体を通して「京都アカデメイアとか何とか言っても、やっぱり大学の人たちなんだナア」と呆れた点を二つ挙げる。
一つ目は全く在野研究に目が向いていないということ。既存の大学の枠組みを批判する割には結局「自分の中の理想の大学」に回帰したいだけであって、大学なんぞと関係なく研究している人たちに見向きもしないのは権威主義的だし、見向きもしない理由すら明らかにしない。もっとも、こんなことを声高に言うとサヨクっぽいので一応申し上げておけば単純に「そんな余裕がない」くらいお忙しいのだろう。
二つ目は「京都アカデメイア」をマネタイズするのかしないのか? とか、あるいは「京都アカデメイア」を広げたいというようなお話について、非常に自己中心的な考え方であるということである。これは、西山雄二氏の「哲学の権利」のシンポジウム(主にフランス哲学)、「応用哲学会」の大会(主に分析哲学)、「中之島哲学カフェ」(主に現象学)などの人たちの話振りと共通するところがある。要するに大学の外にいる社会人の目線を全然意識していないのである。
あなた方があなた方のイベントで内輪受けで「マネタイズしようかな」とか「関西以外にも広げていきたいね♪」とか「がんばります」みたいなことを言うのは勝手だが、大学の外にいる身からすれば、「で、結局その京都アカ何とかってなんなの? 俺らにとってどんな選択肢なわけ? 学問的知識にはそれ自体に価値があるの? 院生に指導してもらえると何が嬉しいの? 家で本読んでるのと何が違うの?」とまず聞きたいわけである。
そういう目線を全く意識せずに大学の名前を借りて宣伝打っている時点で、京都アカデメイアも中之島の哲学カフェも同じ穴の狢である。いや、別に大学が権威であるとか、アカデミックな知識はそれだけで独自の価値を持つとかそういうのは開き直ってもらっても構わないと思う。しかし、それならそれでエンターテイメント性や分かり易さや教授法に対する独自の追求があって初めて収益化などについて話をするべきであって、まだ内輪受けの段階で一般公開で何十人も人を集めた挙句、「行く行くは収益化すべきかな」などと遣り取りするのは片腹が痛い。
また、討論の内容を聴いていると、もしそこで「京都アカデメイアって何なの?」と問えたなら、「これこそが『大学』です」とか「大学の派生態」ですなどと回答が帰って来そうな内容も耳にしたが、そもそも「大学」というものが解体期にあってその本質がわからなくなっているからこうやってシンポジウムも開かれているというのに、そんな答え方じゃあ説明になってませんよ、と勝手に自問自答してしまった。
二回ほど行った中之島の哲学カフェは「罰ゲーム」にしかみえなかったが、「京都アカデメイア」もまた、これだけ人を掻き集めておきながら、見切り発車の自己満足の段階に過ぎないではないか。これが第一印象である。
哲学道場 深草周
http://tetsugakudojo.web.fc2.com/
<付録>
なお、以下に一部出演者の発言について一部メモしておく。
<パネリスト>
■鈴木謙介氏
【前半】「話は大きく二つに分けられる。まず(1)大学にコストパフォーマンスはあるのか、次に(2)大学と言っても各大学ごとに事情は異なるから問題を分割すべきである。……まとめとしては、次の三点:(1)現在の制度では「高学歴ワーキングプア」が生まれやすい、(2)大学で学んでも企業に評価され難い、(3)競争環境全体が悪化している」
【後半】「大学を超えて学問することについて:主語を『大学』ととるか『大学生』ととるかで変わる。大学生は他大学の講義にもぐったり、自主的な勉強会を開くことができる。自分もそうしていた。また、大学は学生に多くのものを提供している。集会場所、大学図書館の文献、余暇のある同程度の人々、場合によっては巻きこみ可能な教員などである」
■信友建志氏
【前半】「大学の実学志向について、視点を換えてまさに実学を教えている現在の専門学校に目をやると、合目的的に入ったはずの専門学校で、一旦目的を見失ってしまうとアノミーに陥るという弾力性の無さに目が行く」
【後半】「大学の独自性は研究者を再生産できることにある」
■中島啓勝氏
【前半】「教養はリストアップしてしまうと、社会が要請する枠組みに嵌めこまれてしまってそのモノサシで計られるようになってしまう。だから教養はリストアップされるべきではないのだが、教育現場の要請としてそうせざるを得ない。社会と学問とのズレは今に始まった話ではなく、昔からあること、研究者を目指すということは、元々マンガ家になることよりも覚悟がいることである」
【後半】「京都アカデメイアのように『学びたい』と思う者同士が集まる場所こそが本来の『大学』であると捉えるべきである」
*1:「一般教養(の講義)」の学生語