深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

2010-10-12永井均『なぜ意識は実在しないのか』の一部要約

永井均氏の本(『なぜ意識は実在しないのか』)の一部(第一日目のみ)について要約を作成した。
ただ議論を追っただけのものではあるが、誤読などあれば御指摘頂きたい。

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永井均『なぜ意識は実在しないのか』の最初の部分(第一日目)を要約する。特に要約者による解釈が入ったと判断したところやコメントは〔〕で囲んで示した。

【はじめに】

「各人に心もしくは意識があり、それは主として脳の機能によって作り出される」という世界像が常識的である。そこで、この講義では以下の三つのことを示す。

  • この世界像が虚構であること
  • この世界像が私たちにとって不可欠であること
  • この世界像が私たちにとっての「現実」を作り出していること

【第一日目】

  • 私にとって知り得る心は一個しかなく、従って心は外延を持たないにも拘わらず、なぜ心という一般的なものがあると信じられているのか?
  • ひとまず「各人の心」が実在し、それらが各人の脳に内属すると仮定しよう〔=各人の意識を超えた超越的な視点を仮定する〕。しかしそれでも脳と意識との関係は独特である。なぜならば、脳以外の体内器官であればその仕事は物同士の関係として見えてくるが、脳の仕事は認識対象が現象してくるまさにそのことであるからである。
  • 脳と意識との関係は独特であるから、これに対して(いずれかの特定の心が)一般的説明を与えることはできない。また、このような現象は複数の心の間で共有されない。

・「酸っぱさ」について例を示す。「酸っぱさ」には次のことが伴うとしよう。
A. 身体的反応(公共的、日常的)
A’. 身体的反応をしている際に感じていると社会的にされているもの(公共的、第一次内包)
B. 脳神経の微細な状態変化、或いは対象のミクロ物理的な変化(公共的、専門的)
C. 「酸っぱさ」そのもの(私秘的、第〇次内包)

・上記の区分を使って認識の発展段階を描くと次のようになる。
0. まず子供はA(酸っぱそうな表情)とA’(第一次内包)との関係を学習する
1. 次に子供はAから独立に存在するC(内面的)に気づく【第一の逆襲】。
2. さらに「CはBがたまたまもたらす現象に過ぎない」という認識に至る。「水っぽさ」の本体がH2Oとして定立される段階【第二の逆襲】。この段階に至る可能性が「痛みや酸っぱさのような心的なものを、客観的存在者として共通世界の中に位置づけるから」である。

「神経末端から発せられた信号が、神経線維を通じて脊髄後角を経由して大脳皮質感覚野と視床に伝えられるプロセスは、客観的空間の中に位置づけられた公的プロセスで、原理的には誰からも観察可能な客観性を持つことが決定的に重要なのです。それを媒介にすることによって、痛みの『治療』がはじめて可能になるのです!」(p.18)

3. しかしながら、このような「第二の逆襲」に対して、物理的生理的過程がどうであろうと、それらに関係なく「痛み」や「酸っぱさ」そのものが存在し得ると主張できる。つまり、第一の逆襲へと回帰可能である。

「そもそも痛みや酸っぱさや不安や憂鬱のような心的なものは、感じる主体にとってどう現れるかこそがその本質なのですから、それの正体や本体は、どこまでもそれ(=感じる主体への現われ)とは別のものでしかありえないのです。定義上現われ(=見かけ)でなければならないもの、つまり定義上正体や本体ではありえないものは、正体や本体が判明しても、いわば定義上びくともしないわけです。そして、そのような仕方でびくともしないものが存在しうることは、そのようなびくともしなさによって成り立っている主体(つまりわれわれ意識主体)が存在するという前提と表裏一体なのです」(pp.19-20)


しかしながら、このような"感覚そのもの"は飽くまでも私秘的なもので他人にそれがあるかどうかはまったく分からない。また、それを公共化言語化するような手段も原理的に一切存在しないと語られている。

〔例えば「言語化不可能なことは……」と言語で記述することは論理的には矛盾している。同様に、深草はこれらの永井の表現はどこまでいっても比喩的であるし、また、永井の記述は全体として神話的にならざるを得ないと判断する。というのも永井の記述は文字通りのもの以上として受取ることが求められているからである。しかし、そのように受け取られるはずのものが正しく受け取られているかどうかを判定する基準は立てられない。もっとも永井もこの点は十二分に自覚していると推測される〕

このような意識のありかたを永井は時間と類比させて表現する。上記ABCの区分に対応させて次に示す通りである。

A. 外面的行動=現在の出来事の通時的記録
B. 身体的基盤=無時間的事実(過去・現在・未来といった様相を度外視)
C. 直接的感覚=現在の出来事

感覚の場合に各個人であったものが、ここでは各時点に置換されていると捉えることができよう。「現在の出来事」は現在時点においてのみ体験可能な点で直接的感覚に喩えられる。また、かつての「現在」を新しい現在に伝える機能を果たす点で出来事の「通時的記録」(或いは記憶)は各時点をつなぐ公共的な存在であり、これは自己及び他者から共通に観察可能な外面的行動に喩えられる。最後に間主観的なAとも純粋に主観的なCとも無関係にBが自然的であるように、現在-非現在の関係とは無関係な「無時間的事実」がある。
永井はこの類比を採用することで次の甲乙二つの問題を明らかにすることができるという。

甲.【現在還元主義の可能性】

上記の「通時的記録」や「無時間的事実」もすべて現在の出来事であるとして、現在にすべてを還元して考えることが可能である。類比関係から見ると、これはAやBをすべて誰かの感覚による知覚、即ちCに還元する知覚還元主義の可能性を示唆している。

もっとも、すべてが知覚に還元されるとしても、見えないもの(感覚など)と見えるもの(脳神経など)との区別自体は残存する。例えば、色の場合、見えている色の実質(内容、クオリアから色の形式(他の色との区別)とが区別可能であると私たちは常識的に捉えている。そして、色の識別に際しては後者のみが制約条件となる(すなわち、色の場合、前者は問題にならない)。色は見えるものであり、見えるものについては形式が本質的であるからだ。逆に「痛み」などの見えないものの場合、その内容が本質的となる〔なおここで「本質的」であるとは必要不可欠であることと解する〕

乙. 【「現在」の二義性】

「現在」二つの意味がある。一つの「現在」は唯一的である。つまり、まさに今、である。しかしながら、反省的主体がいるあらゆる時点においてこの「唯一の現在」が成立し得る。つまり、複数の「唯一的現在」が成立し得る。このような複数化された「現在」はどの現在にも当てはめられるような言葉である。よって「現在」には唯一的な意味と複数的な意味との二義が含まれる。

「現在」の二義性を感覚の話に戻して言うならば、これは「自分」の二義性である。即ち、或る意味では自分とはただ一人であるが、別の意味では誰もが自分が自分であると主張可能である。前者の意味の「自分」を特に「私」と呼び、後者の意味の「自分」を特に「当人」と呼んで区別しておこう。「私」は私秘的な意味を持ち、「当人」は公共的な意味を持つ。

このような二義性において、「私」の唯一性を確保することはできない。というのも、「この私こそ唯一の私である」と主張しても、誰もが同じように主張可能であるからである。従ってこの二義性において唯一性は複数性に沈没する結果になる。つまり、このような唯一性は公共的な言語では表現不可能なものに転化してしまうのである。

〔甲の問題におけるクオリアも言語で指示されて概念化すると、その本質が内容ではなく形式になってしまう。永井においては公共化=言語化されたものはすべて形式を本質とするものである。従って言語以前のものだけが内容を本質とし得る。なおこのような記述自体は既に言語化された世界の中で「言語化前-言語化後」の対立を立てることである。後に述べる可能性と現実性との関係でもそうであるが、永井においては言語化後に立てられた「言語化前-言語化後」の対立の中の「言語化後」の中にさらに「言語化前-言語化後」の対立を立てることが可能である。このような対立を立てることを繰り返すことで系列化が起こるが、この系列化は永井の議論に頻出する型であるようだ〕

〔以下の内容に対応する本文の記述は深草には読み難かったため、大幅に解釈を補って次のように読んだ。pp.38-40〕

さて、「当人」は知覚がある状態になればそれが分かると永井は認める。しかし、その知覚そのものがどんなものであるかは永井には分からない。なぜならば、永井はその「当人」とされた人ではないからである。即ちここで永井と「当人」とは異なる個体であるからである。一方、永井自身、即ち「私」に関しては知覚に対して直接的体験を持つ。しかし、彼が知覚そのものが分かると公に認めてもらう権利は彼が「当人」でもあることに由来する。そのため、彼が知覚そのものを体験していること、即ち「私」であることは公共的に認知される権利と無関係である。

これに対し、

  • 「当人」であれば、少なくとも本人は自分自身の意識を直接体験するはずだ。つまり、「当人」は「私」であるから、このような権利を持つのである――と捉えるならば、「当人」は複数存在するため、どの「当人」が現実の「私」であるか(例えば、永井自身であるか)は決定不能である。可能な「私」、即ち「当人」の複数性に対して現実の「私」の唯一性が対置される。ここでいずれかの「当人」を「私」として選択したとしても、任意の「当人」に対して同様の操作が可能であるが故に、その複数性は解消されない。

また、

  • 「私」が知覚そのものを体験する、と言っているが、それは「私」がそのような権限を〔公共的に〕与えられているだけである、とも言える。しかし、そうした公共的な権限は実は各人にとって各人に与えられる権限なので、結局誰もがそのような権限を持ってしまう。つまり、「私」は「当人」になってしまう。「私」は複数の「当人」の中の任意の一人になってしまう。

〔まとめると複数の「当人」、即ち可能的な諸々の自分が成立しているが、その中の特定の一つが「私」、即ち現実的な自分であるされる。ところが、この現実的な自分もまた複数化(可能化)し、可能的な諸々の自分の中の一人、つまり「当人」でしかなくなる。複数の可能性の中に現実性が立てられるのであるが、この現実性は現実そのものではなく、この現実性自体がさらに複数の可能性と一つの現実性へと分かれ、さらに分かれた現実性が可能性と現実性へと別れる。〕

「『自分』だけが直接的に体験できるものとしての『意識』のとらえ難さは、ここにあります。概念的にとらえようとすれば、それはとらえられない『私』の方向にどこまでも逃げていきますし、直接にとらえようとすれば、それはすでにとらえられている『当人』の方向に逃げていきます。しかも、『私』というとらえ方の内部でも、『当人』というとらえ方の内部でも、その同じことが反復されるので、事態はますます複雑になります。しかし、まさにそのようにありかたこそが『意識』が存在する仕方なのです。それは、一つの概念の複数の実例が同じ平面に並んで現われうるような、通常の意味で実在するものとは、根本的にあり方の違うものなのです」(pp.39-40)


「意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障なレトリックだと思わないでください。ここに問題のすべてがあるのです。/世界の中に客観的に存在している人間や動物というものが、それぞれ意識という不思議なものを持っている。不思議なことに、脳という物理的なものがそれを作り出している。いったいその関係はどうなっているのか。――私はこのような問題の立て方を否定するわけではありません。またそこで前提になっている世界把握が間違っていると言っているのでもありません。それは正しい。しかし、その正しさに、それが正しいという世界把握に、われわれはどのように到達するか、どのようにして現に到達しているのか、それを明らかにするのが哲学の課題だ、と言いたいのです。この課題を飛び越してしまえば、すべては砂上の楼閣です」(pp.40-41)