深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

2010-07-14そのものの世界2

以前の記事「そのものの世界」について、
さかたさんからmixi日記上にて応答を頂きました(以下、抜粋)。

「<私>非持続説」は、「現実の非持続説」といったほうがよかったかもしれません。
「私とは経験そのもののことでしかない」ともいえますが、 むしろ「私は存在しない」というほうがすっきりするからです。
要約してみます。

・経験とは別に経験の主体は存在しないので、
「私は明日は明日の坂田の経験を経験している」というのは間違いです。

・しかし現実の経験とそうでない経験の区別はあります。
今の坂田の経験だけが現実で、過去や未来の坂田の経験は現実ではありません。
しかし「今は明日の坂田の経験は現実ではないが、明日にはそれが現実になる」というのも間違いです。
そもそも現実であるとは誰にとってか。持続する主体は存在しないのですから、あるときのある経験が現実であるのは、そのときのその経験じしんにとってでしかないからです。


私も表現不足で論点がぼやけてしまった感がありますので、
再整理しながら応答してみたいと思います。

まず、登場人物を「私」一人に絞り、その上で、そのものの世界(自体的世界)と表象の世界とを区別した下記の表を考えます。ここで言う表象とは今の私の経験(N0)と結びついているものですから、表象の上の過去(P1)・現在(N1)・未来(F1)はすべてN0の中に押し込まれるようなイメージを持ってもらってもかまいません。

過去現在未来
表象P1N1F1
自体P0N0F0

この表で考えますと、上記引用中の命題はそれぞれ次のように翻訳できるでしょう(翻訳α)。

・経験とは別に経験の主体は存在しないので、
「私は明日は明日の坂田の経験を経験している」というのは間違いです。

「N0はF0と時空的な連続部分を持つ」のは誤り。

今の坂田の経験だけが現実で、過去や未来の坂田の経験は現実ではありません。

N0は現実で、P0やF0は非現実である。

しかしながら、この翻訳はさかたさんの意図に沿うものではあっても恣意的です。
つまり、さかたさんが語る「明日の坂田の経験」などはさかたさんの表象に過ぎないではないか、と批判することが可能だからです。ですから、次のようにも翻訳できるでしょう(翻訳β)。

・経験とは別に経験の主体は存在しないので、
「私は明日は明日の坂田の経験を経験している」というのは間違いです。

「N1はF1と時空的な連続部分を持つ」のは誤り。

今の坂田の経験だけが現実で、過去や未来の坂田の経験は現実ではありません。

N1は現実(N0に対応)で、P1やF1は非現実(N0に対応しない)である。

表象上においては、N1とF1とはつながっていることも可能ですし、切り離していくこともできるでしょう。しかし、これは元々つながっているものを切り離すことであって、逆ではないと思います。つながっているものを敢えて切り離して究極的なところまで行ったのが「F0」という観念だと思いますが、これは幾ら近づいても実現されない理念的なものに過ぎません。厳密に言えば「表象であり得ないと定義される表象」のような不合理なものです。ではN1とF1との元々のつながりというのがどういうものであったかと言えば、これは日常的な時間関係、因果関係に沿ったものだと思います。そういう意味では未来はありますし、「ない」と仰られているような未来(F0)的なものは元々妄想です。N1とF1はつながっていますし、今日沈んだ日が明日昇ってくるという常識は信頼できます。「N1はF1と時空的な連続部分を持つ」と考えるのが自然です。譲歩して、常識を疑うにしても、特に「つながる」と考えるより「つながらない」と考えるべき根拠はなく、せいぜい同等程度に扱われるべきでしょう。

また、一般に「比較」は相違点と同時に共通点を含むような二項の間で可能ですが、ここで仰られている「経験」についても、特に現実性/可能性という相違点と同時に何らかの相違点が必要です。つまり、翻訳βでは、N1とP1/F1とは相違点と同時に表象性という共通点を持たせることができますが、翻訳αではそのような共通点があることが何ら担保されません。P0やF0の本性はまったく不可知で謎のままにおかれています。それらのあり方は抽象化されたP1やF1、すなわち、具体的なイメージを剥ぎ取られた表象に過ぎないと思います。

〔再掲〕

過去現在未来
表象P1N1F1
自体P0N0F0

【結論】つまり、さかたさんのように、

「私とは経験そのもののことでしかない」ともいえますが、
むしろ「私は存在しない」というほうがすっきりするからです。

という前提を採用したからといって、
「未来はない」という結論は直ちに導かれないし、そのような結論を導くのは恣意的だということです。

# 永井均氏の本の内容はあらかた忘れてしまいましたが、氏の言われる「カント原理」に私の説明は近くなっているような気もします(未確認)。