深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

2011-01-18哲学道場高円寺「二元世界」(第二期第06回)

2011年01月16日(日曜日)は深草が世話役を務めるアマチュア哲学討論会の高円寺例会(哲学道場高円寺、市川徹氏主宰)が開催され、私が発表を行ないました。内容としては主宰者の市川氏の哲学的な立場(素朴実在論)を批判するという趣旨でしたが、理解にアラが目立った部分も多かったようです。

下記に当日の口頭発表(白板使用)にて使用した原稿をそのまま掲載致しますが、具体例(インチの例)などが「論旨に無関係である」といった不首尾な点も指摘されました。

非常に大雑把な感想を述べると、まさに市川氏が「素朴」であり、それ故に人類にとって自然だと思っている部分(幾何学で言えば非ユークリッド幾何学に対するユークリッド幾何学)について、私からは「なぜ他でもなくそれが特権的なのか? それは単なる可能な一解釈に過ぎないのではないか?」と言いたくなってしまうというところです(哲学道場高円寺、第一期も合わせて通算37回目にしてまだその程度の認識だというのはお恥ずかしい限りですが……)。

なお他の出席者の感想を引くと、

  • 永井均派異端派にして、どんな相手に対しても必ずマウントポジションを取ろうとする”グレイシー柔術”的立場を採るジェイコブ氏からは「〔市川氏の立場は〕極めて穏当な立場である」。
  • 物理学的相対主義の立場であるduality氏からは「個別科学の知見のまとめ方について〔恐らく「素朴」志向であるが故に〕チグハグな部分が散見される」。
  • 谷口氏からは「素朴実在論という字面から受ける印象とは裏腹に、討論の場における高い強度を持っている」と評価されました。

どんさいの世界観
当日市川氏に用意して頂いたレジメ
哲学道場

反『二元世界』論

深草周(哲学道場世話役)

本稿では市川徹『二元世界』(2010)の内容について批判を行なう。後述の理由により読み難い文章なので、今回は差し当たって「序」を読んで概括的な批判をさせて頂く。

■方法的問題:体系化という方法は目的に合わない

市川は世界観の体系的記述を志向しているようである。ところで、およそ哲学的体系を構築しようとする際には何らかの既成事実から出発するのか、それともその外側の起源(世界を可能にするような外部)を設定してそこから出発するのかは大きな問題である。『二元世界』の記述をみるに、既存の個別科学の知見という既成事実とそれ以前の論理的な見解とが合わせて記述されており、中途半端な印象を受ける。もっとも、この「論理的な見解」というのが実は単なる個人的な心理体験の記述であれば、それも既成事実の描写としてひっくるめて既成事実からスタートしていると考えて差し支えないのかもしれない。

既成事実から出発すれば形式化は避けられない。いずれは形式主義的に完成してしまい、結局「そう定義・分類したからそうである」という同義反復に陥る。一方、現に存在し、経験されるものの外側の起源から出発すれば、それは検証不能な「神話」を語ることになってしまう(ex.社会契約説)。つまり、両極端が一致し、いずれも世界との関連を欠いた無意味・無内容な形式に陥る。この形式について次の二点を指摘する。

A.解釈の付加は余計である:
個別科学の知見は既に一定のコンセンサスを得ているが、これに独自の論理的な見解を付け加えても結局コンセンサスの度合いが下がるだけではないのだろうか。また、整理整頓によって、思考経済(オッカムの剃刀)的な利点が発生しそうなものだが、むしろデメリットになっていないだろうか。

B.体系化は目的にそぐわない:
このような形式は完成してすべてが「みえる化」することによってむしろ何が重要かが見失われると深草は考えている。なぜならば、哲学的に重要な部分があるとすればそれは「みえない化」されたものであって、「みえる化」された部分は個別科学で取り扱えばOKだからである(これは深草の哲学観においてそうだと思う)。言い換えれば、形式的に完成し無内容化された体系は哲学ではなくて、単なる博物学分類学になってしまうということである。そのような学は確かに一面客観的であるが、同時に価値を論ずることができないものである。したがって、次に引用するような目的にはむしろ到達できない。「このように体系化すれば世界を理解でき,そこでのそれぞれの意味を,当面何が重要かを明らかにできる.そこに到達したい」(p.10)。この点でこの体系化という企ては目的合理性に欠けていると言うべきである。

■認識論的レベルの不統一

日常的な世界で私たちがコミュニケーションをはかるとき、何かしらの意味・内容・解釈を一定の形式・様式(語彙・文法・論理)に則って伝えている。私たちが或る内容を伝えることができるということは、一定の形式的な規則を共有することによってはじめて可能である。言い換えれば、共通のインターフェースを持っていなければイイタイコトを伝えることはできない。

私たちのコミュニケーションにとって、そのような形式的ないしは記号的な遣り取りと、もっと原始的で非言語的なしぐさや表情のコミュニケーションとの関係を考えてみると、常識的に非言語的コミュニケーションと呼ばれているものも実は一種の文化的に定型化された記号的な遣り取りに過ぎないという「形式優位」の立場と、そうではなく、むしろ前記号的な非言語的コミュニケーションこそが普遍的かつ基礎的なのであって、それをどのように記号化するかが文化相対的なのであるという「内容優位」の立場とに大雑把に分けることができる。

「形式優位」の立場においては、あらゆる非言語的コミュニケーションも定型に依存し、記号から独立ではあり得ないので、表現形式が豊かな多様性を持っている。したがって、伝えるべき内容に対して表現形式が比較的一致し易いと言えるだろう。一方で、「内容優位」の立場においては、言語的あるいは記号的コミュニケーションが自立的ではなく、ヨリ基礎的で前記号的な非言語的なコミュニケーションの仕方に依存せざるを得ないため、伝えるべき内容に対して表現形式が比較的一致し難い(言語的コミュニケーションで伝えきれなかった部分は非言語的コミュニケーションによって補足される)。

また、「形式優位」の立場の極端なものとして、そもそも伝えるべき内容や内面というものは存在しないのであって、すべては機械的な、あるいは物理的な記号の遣り取りに還元できるとする立場、言い換えれば、人間のコミュニケーションもコンピュータ端末同士の通信も同等であるという「純粋形式」の立場を考えることもできる。これを形式還元主義と言い換えることもできるだろう。一方で、「内容優位」の立場の極端なものとして、記号的なもの・定型化されたもの・繰り返されるパターンなどは実は存在しないのであって、すべてのコミュニケーションはそれぞれ一回性において成立しているという「純粋内容」の立場を考えることもできる。これは内容還元主義と言い換えることができるだろう。

「純粋形式」の立場においては、記号的遣り取りに対してその妥当性のモノサシとなるべき内容がそもそも存在しないことになっているために、意味論的な一致/不一致は存在しない。一方で「純粋内容」の立場においても、そもそも内容的なものを表出するための記号の存在が否定されているために意味論的な一致/不一致が成り立たない。要するに、いずれの立場も形式と内容のどちらか一方しかないために形式と内容との間のズレが成立しない立場なのである。

上記の四つの立場を以下に列挙しておこう。

【レベル0】純粋内容:意識のみ。世界(言語)は無い → 一致も不一致もない →形式化不能(神話性)
【レベル1】内容優位:意識の中に世界(言語)がある → 形式的に一致し難い
【レベル2】形式優位:世界(言語)の中に意識がある → 形式的に一致し易い
【レベル3】純粋形式:世界(言語)のみ。意識は無い → 一致も不一致もない →形式的完成(形骸化)

便宜上レベル0〜レベル3と名前をつけてみたが、これらの四段階はきっちり分かれるというものではなく、言わば両極端とその間にあるグラデーションと言ったイメージである。とりわけ、日常的に取り沙汰されることもある【レベル1】及び【レベル2】の二段階は言わば相対的な関係にある。たとえば、単語は記号の一種であると解釈できるので【レベル2】に属するものであるが、単語のつなげ方には一定の恣意性が許されており、【レベル1】的な表現も成り立つ。しかし、単語をどう並べるかにも一定のパターンや決まりごとがあり、文法によって規制されている。文法は【レベル2】的なものである。だが、その上位にさらに文の並べ方があり、これも【レベル1】的なものと【レベル2】的なものが対立している。つまり、音・語・文・段落・文章といった表現の階層各々について【レベル1】と【レベル2】との対立が想定し得るのであって、複雑な表現であれば、その全体としては言わば入れ子状に重層的な状態になっていると考えるのが適切である。

認識論(ないしは認識の交通としての表現論)におけるこのような区別を踏まえた上で、市川の記述を検討してみよう。

「知る対象としての世界と,知った世界とは同じ世界であるのか.いうなれば対象である物質世界と観念世界の関係である.知に誤りがあることはしばしばであり,物質世界と観念世界との一致は保証されていない.しかし物質世界と観念世界とは切り離すこともできない.物質世界と観念世界とは一つの実在世界としてある」(p.11)

ここで言われている「物質世界」:「観念世界」=(深草の言葉で言えば)内容:形式、であると私は解釈する。市川は内容還元主義や形式還元主義を採らず、内容と形式との並行的二元論を採用する(『二元世界』という書名はこの点に由来するようだ。また、市川によれば、物質世界+観念世界=「実在世界」という用語である)。

市川によれば、観念世界は一般的なかたちで自分自身を含む「実在世界」を捉えることができるという。つまり、自分では無い他者である物質世界を捉えることもできるし、自分自身、つまり観念世界をも再帰的に捉え返すことができるわけである。深草が言うところの内容と形式との対立――これはここでは個別的・個物的・不定型的なものと一般的・概念的・定型的なものとの対立として考えているが――で解釈すれば、次のような不整合に至らざるを得ない。すなわち、

A.物質世界の把握において無限後退に陥る(不可避的多義性)
B.物質世界を彼岸に設定する(不可知論化)

のいずれかにならざるを得ない。しかし、いずれの場合も市川の記述と矛盾するため、市川の体系は首尾一貫したものではないという結論が導かれる。このことを以下に具体的に説明しよう。

Aの場合とは次のようなことである。観念世界の一部である意識は形式的に実在世界を捉えることしかできない。実在世界を構成する二つの世界のうち、観念世界については意識と同じく形式的なものなので十全に捉えることができるだろう。しかしながら、一方で物質世界は内容的なものなので、形式的には否定的なものとしてしか捉えることができない。言い換えれば、意識は実在世界を差し当たって「形式的に理解可能なもの」と「形式的に理解不能なもの」とに分け、前者を観念世界、後者を物質世界と呼ばざるを得ないが、単に非形式的なものとしてみられた物質世界は充分に把握されたとは言えない。そこで、経験の増加や異なる枠組みを使って形式的に理解不能だったものを形式化する運動が始まるが、物質世界は形式的に汲みつくされるものではなく無尽蔵であり、それは物質世界のどの部分についてもそうである。したがって、物質世界はどの時点のどの部分についても内容的な曖昧さを含まざるを得ない。

具体的に言おう。たとえば「長さ」について考えてみると、或る個別の「長さ」について私たちは単位を設定して把握することしかできない。計測の結果それが「9インチ」だったとしよう。この計測の精度の問題とは別に、そもそも「インチ」とは何か、という内容的問題が存在する。たとえばどこかにインチの原器のようなものがあって、それに一致する長さが1インチであると考えてもよい。しかし、次のような多義性は明らかである。すなわち、私たちは「インチの原器の長さが半分になったという変化」と、「それ以外のインチで計測された長さすべてが2倍になったという変化」とを区別して解釈できるような経験的検証基準を持たない、ということである。つまり、あらゆる「長さ」は相対的なのであって、これは「長さ」が形式的なものに過ぎず、実質的内容的な「1インチ」なるものは(たとえ存在するとしても)見出し得ないことを意味している。この曖昧性は「インチ」の実質的な解釈をしようとしてメートルなどの他の単位を導入しても原理的には解消できないものである。

このような意味論的な曖昧性・相対性は世界のどの部分についても、意識におけるどのような形式的認識においても排除できない(無限後退に陥る)が、市川の記述では世界の一部においては物質世界の完全な認識(完全な反映)があるとされているのではないか。

「世界のすべてを受け入れることが不可能でも,あまねく,偏ることなく,必要な物事はすべて受け入れて関連づける.必要性は主観がかかわることができるすべてであって,主観がかかわれないことは必要性もかかわらない.そうした世界観なら実在世界とぴたりと重なり合う」(p.12)

一方、Bの場合とは次のようなことである。Aの場合に鑑みて、物質世界を意識の彼岸、すなわち意識から到達不能な場所においてみることである。この立場は「二元世界」にふさわしく物質世界を観念世界から全く切り離してしまうが、当然ながら不可知論に陥り、形式的・相対的な認識どころか、およそ一切の物質世界に対する認識は(それがどこかに存在するということを除いて)投げ捨てられることになる。上記の引用だけをみても、市川がそのように意図してこの体系を企図したものではないことは明らかであろう。

■技術的な指摘:なぜ読み難く感じるのか?

『二元世界』の文章は読み難い。なぜならば、接続詞(つなぎ言葉)が少な過ぎるからである。ここで言う「接続詞」とは「だから」「したがって」「つまり」「また」「さらに」「すなわち」「言い換えれば」「しかし」「なぜならば〜からである」「というのは〜からである」といった言葉である。このため、文と文とのつながり、段落と段落とのつながりがどのようになっているのか、読者に推定を強いる原因になっており、負担がかかる。

また、つなぎ言葉が抽象的な内容のときには少なく、具体例を挙げる際にはむしろ接続詞が多くなる傾向が見受けられた。これは二極化した状態である。具体的な内容であれば個々の要素については読者も馴染みがあるので接続詞を省いてもよいくらいだが、抽象的な内容の際には読者(少なくとも深草は)は個々の単語の内容よりも、接続詞による構造的な把握から全体の理解にアプローチせざるを得ない。なぜならば、個々の単語の内容には意味論的な解釈の幅がどうしても出てしまうが、文章の構造そのものは個々の単語の解釈とは独立に客観的に存在し、論全体のかたちを大きく規定しているためである。すなわち、文章の大まかな構造が推定できれば、後は個々の概念をひとつずつ検討して場合分けしながら想定した構造に当てはめて確かめることができる。しかし、この文章構造を確認する際に手がかりとなる接続詞が少ない場合、個々の単語の解釈も全体構造の解釈もあやふやなまま読み進めることになり、読者にとって大きな負担になる。