2011-02-01アスペルガー症候群の公表とそれへの反応
この記事を執筆している深草という男性はアスペルガー症候群(AS)である。なぜそう言えるのかと言えば、深草が専門家である医師にそのような診断を受けたからである。「アスペルガー症候群」が単なる主観的なものなのか、決め事のような社会的なことなのか、脳の構造・仕組みに由来する客観的神経的なものなのかに関係なく、論理的に言って、深草がASの診断を受けたこと以外に「深草がASである」ということは存在しないはずである。
だから、私はASであると言ってよいはずであるし、私は個人的な信条からそういうことを明け透けに語り、オープンにすることにしている。たとえそれが就労支援とはまったく関係ない文脈でもそうしたいと思っているし、今のところ現にそうしている。
すると、オフラインでは幾つかの反応が却って来た。そのうち、三点ほどを次に挙げておこう。
- 反応1.深草がASだと言うのであれば私だってASだよ
- 反応2.ASを根拠に「〜はできない」と判断するのは「甘え」に過ぎない
- 反応3.障碍を公表するなんて開き直りである
なお同一人物から上記三種類の反応があったというわけではなく、全部異なる人物・異なる日付において頂いた反応である。もちろん最終的には私自身の記憶能力や信頼性が問題になるが、複数の人から異なる文脈で反応をもらうことは客観性の担保にとって有効だと思うので明記しておく。
この三種類の反応に共通して感じられるのは、「深草がASだなんてまったく信じられない」という前提である。
普通に筋道立てて話すことも出来るし、現に討論会などを主催したりしているではないか、という評価が前提としてある*1。
反応1「深草がASだと言うのであれば私だってASだよ」
この反応は統合失調症*2の方から頂いた反応である。文言上は「みんなと同じだよ」というフォローの意味とも解釈できるが、言われた当時としては「統合失調症である私は『真の障碍者』だが、ASは、少なくとも深草はそうだとは思えない」だと受けとった。「障碍」という言葉の背景には人それぞれに大きな生活上の困難が隠れていて、それがときに情念となってこうした言い方として現れるのだと実感したものである。
反応2「ASを根拠に『〜はできない』と判断するのは『甘え』に過ぎない」
この反応は何回かにわたって頂いたものをまとめたものである。いずれの文脈でも深草としては「ASだから〜できない」という発言をしたつもりはなかったのだが、反応をされた方の仮想敵はなぜかそこにあるようであった。ただ、私自身自分が
「私はASというラベルによりかかってこんな医療・行政サービスを受ける権利があるのだろうか、弱者をカサに着た利権ではないか、タダ乗りなのではないか、税金泥棒ではないか」
と思っていたときに「ASなどと言うのは甘え」と対面で私に向かって言われたので、ひどくダメージを受けた。深草は普段「まーた弱者利権か」「人権派(笑)」などとほざいているような人間であったが、「弱者の痛み」を思い知ることになったわけである。実際、それは質的にそれまで想定・想像していたものとは格段に違うものであったというのが感想である。ただ、もちろんこの「痛み」を私以外の誰かが直接にわかるわけもないのだから、それを理解せよなどと第三者に迫るのはやっぱりおかしな話であろう。私自身、ダメージを受けた上でやっぱり弱者利権はよくないと思っている。
実際、当事者に面と向かって「甘え」と言える度胸も或る意味凄いが、そこまでの経緯で私が発言者に対してそれなりに不当な態度をとっていたことも発言の一因だと理解している。そのため、特にこの個別のケースについて一概に善し悪しは判断できないだろうし、ここでは状況の一つの類型として考えてもらえればと思っている。このような経験に鑑みて、インターネットなどのメディア上で一般論として「ASは甘え」などと発言するのと、個別の当事者に対してそう発言するとは一応区別して考えた方がよさそうだと今では感じている。
そのほか、この反応については「障碍による免責は正当か、正当だとすればどの程度までそうなのか」「障碍によって不可能なことについても責任は生じるか」という関連する論点があるが、ここでは措いておく。また、何か私からひどい扱いを受けたと思ったときには「ASは甘え」と述べれば深草に大きなダメージを与えることが出来るので活用して頂きたい*3。
反応3「障碍を公表するなんて開き直りである」
これも或る意味では反応2に近い観点からの反応である。
- 「自分の障碍を公開するなんて恥知らずではないか」
- 「障碍そのものはともかく、それで医療・行政サービスを多めに受けていることを公表するなんてあつかましい」
- 「公表することで同情を得ようとしているのではないか」
- 「働かない言い訳にしているのではないか」
といった解釈ができるであろう。
まず「ASはそもそも障碍なのか」も一つの論点足り得るが、そこはここでは論じない。少なくとも深草について言えば、アスペルガー症候群であり、それを一因として生活上の困難があって「障碍者」ということになっているためである。ここでは、相手に譲って「障碍」ということにしておこう。
一つには、「障碍者」はフリーライダー(タダ乗りする人)ではないかという問題がある。言い換えれば、客観的に考えて社会的に弱者だと認定された人々が公共サービスを不当に多く享受してしまうという問題があり得るだろう。目の前の人物がそのような「弱者」を自称することは、まさにタダ乗りを開き直って表明しているか、そう受け取られても仕方がないことだとみなされるのかもしれない。
また、「疾患や障碍は恥なのか」は考えてみるとなかなか味わい深い問題である。阪大で「臨床哲学」を研究しておられる方々が好きそうな感じがする。
あるいは、もっと単純に考えることもできる。たとえば、そもそも「アスペルガー症候群」については何だか色々と面倒そうな話題だから回避したいと相手が思っている場合である。彼/彼女らにしてみれば、深草のような当事者が話題として振ってくるのを面倒だからといって否定してしまうと、何だか深草のアイデンティティーまでをも否定したかのように受け取られてしまうので、そもそも特に文脈もないのにそのようなあまりにも個人的な話題を持ち出して来るのが礼儀を欠いており、あつかましいと受け取られているのかもしれない。別の言い方で言えば、そのような微妙な話題を振ることは、相手からすれば話題の選択肢を強制的に狭められてしまったように受け取られているのかもしれないのである。
そもそもなぜ公表するのか
私としては、自分を労働市場に流通する商品として考えた場合に、「そうか、今までは羊頭狗肉、つまりAS的なのにASでない=定型発達者であるかのように値札をつけて売っていた。そしてその結果、企業に損失を与えてしまった」と解釈する。また、私的な人間関係においても同じで、やっぱり後から考えてみると自分でも直したい(「治す」じゃなくてね)と思えるような言動が少し思い出すだけでも6回以上あった*4 。
労働市場・私的人間関係いずれにしても「ASの診断を受けた」という事実関係を値札・額面に盛り込んでやっていくべきではないか……と考えて公表してみたわけだが、その結果上記の興味深い諸反応に出会ったわけである。
公表するかどうかは私の自己責任なわけであるから、その結果としてダメージを受けることがあっても甘んじるべきだと思うが、それを補ってなお上記の結果は興味深いものなので(いや皮肉じゃなくて)今後さらに詳細に検討していきたいと思っている。