深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

【2012-07-22】在日エイリアンである自分に気がついてみる

最近、自分がエイリアンであることに気がついた。正確には異星人(エイリアン)なのに、なぜか地球人として生活していることに気がついたということだ。自分は地球で暮らしていて地球人でもあるが、何か別の意味では異星人、ラピュタ星の人でもあると今では捉えている。ただし、自分が事実としてラピュタ星人であるという信念については他の地球人に賛同してもらう必要もないし、強いて求める気もない。しかし、この気づき、あるいは自覚について一種の自己表現として説明したり、どのような効果・ご利益があるかを地球語で語ってみることはできるだろう。性同一性障碍ならぬ惑星同一性障碍に苦しむ人の参考にもなるかもしれない。

A.反動から内発へ

エイリアンであることを自覚すると、地球人の表現に惑わされず、エイリアンとして内発的に考えられるようになる。

どうしてかというと、次のようになるだろう。地球人は様々な枠組み――たとえば、年齢とか性別とか国籍などである――を使って地球人同士で相手を枠組みにはめて判断してやろうと攻防を繰り広げていて、また自分でもそういう枠組みに自分からはまってなぜか苦しんでいたりする。なるほど、自分も地球人だと意識する限りではその攻防に巻き込まれてしまって、自分のあり方はどうなんだと思い悩むことになるのだろう。しかし、自分がそもそも本来は地球人ではなかったこと(エイリアンであること)に気がついてみれば、そのような地球人的攻防に大きく悩むことはないと悟れるからである。つまり、地球人から圧力を受けてその反動で自分はどうかと考えることから逃れられるということである。

そもそも、自分はエイリアンなのだから、自分の母星の者としての自覚と自信を持てばそれで充分である。それについては地球人から何をとやかく言われてもまったく気にする必要はない(彼らはあなたを生粋の地球人と見做しているし、あなたの母星のことなど何も知らないのだから無理もないのだ)。地球に住む者、在日異星人としてのあり方はたまたまのこと、二次的なもの、相対的なものに過ぎないのである。

B.物語の構築

エイリアンであることを自覚すると、本来の自分を描写するという目的を得ることができる。

「人生の意味はなんだろうか?」とか「人生の目的はなんだろうか?」と漠然と考えてしまうこと、思い悩んでしまうことがある。どうやら、地球上では人生にあらかじめ決められた意味や目的などはない者の方が多いようである。そういうときは「物語」を創りにいくのが一つの方策だろう。では物語とは何かと言えば、最初に喪失があり、真ん中に克服があり、そして最後に回復があるものである。たとえば、ピーチ姫をクッパにさらわれた(喪失)マリオが大冒険をして数々の敵を倒し(障碍の克服)、ついにはピーチ姫を本来あるべき場所(王宮)に取り戻す、というのが典型的なストーリーである。

こうした物語の型を人生論に適用してみたとき、一般的なアドバイスは「子供の頃を思い出せ!」「童心に帰れ!」となるであろう。このアドバイスの意図は、「子供の頃に憧れていたもの、思い描いていたが実現できなかったこと、青写真を思い出して人生の指針にするとよい」ということである。

だが問題は実際に「子供の頃」にそんな何がしかがあったか? ということである。なかった場合どうするのか? そこでなかった者は人生の意味の探求はやめなければならないのか。いや、そうではないだろう。生まれる前に遡ったって何の差し支えもないのである。そこで、一つの提案としては「自分は或る別の星からやって来たのだが、今はなぜか本来生活する場所ではないこの地球に住んでいる」という「喪失」、つまり本来生活する場所の喪失、母星の喪失という物語を受け入れてみるという提案である。

この「母星の喪失」シナリオを受け入れてみるなら、次のようなことも想像(創造)できるようになるだろう。それは自分自身の物語を紡ぐための基礎にもできると思う。

1.母星はどんな場所だったのか?

自分がそこでなら適応できる、地球と違って違和感なく暮らしていける惑星とはどんなところだったのかを思い描く。そのとき、地球で感じている諸々の違和感や地球人の尺度でみた場合の「失敗」がむしろ手がかりになっていくだろう。

2.これまでの人生、つまり地球人としての生活で感じていた違和感や失敗について、地球人的な意味づけとエイリアン的な意味づけにおいて仕分けして解釈できる。

地球人のモノサシでは失敗でもエイリアンとしてはそうでもないかもしれないし、逆もあるかもしれない(地球人のモノサシにおもねって本来のエイリアン風味が出せなかったというパターンだ)。地球人としては自信を無くすような経験であっても、自分の惑星の住人としては自然なことで自信を無くす必要などどこにもないことにも気づけるかもしれない。

3.本来エイリアンでもあり、しかし今は地球人としても生きている二重性をどのように統一していくか?

もちろん、母星に帰還するのがベストだが、差し当たりは地球に居候しているのだし、母星がどこのどのような星であるかも確定していないわけである。地球において、エイリアンとしてどのように適応していくのか、外国語ならぬ外星語である地球語とどう付き合っていくのかが「人生の意味・目的」設定に大きく関わってくる。まずはエイリアンとしての自己表現を地球語で進めるのが重要だろう。そうしていくうちにひょっとしたら他のエイリアン(自分と同じ星の出身者ではないにしろ)にも出会えるかもしれない。地球語はなかなか使い勝手が悪いが、地球語のなかに自分のエイリアン性をどうにか表現していくのはきっと発見に満ちた楽しいものになるに違いない。

ちなみに、大勢の地球人のなかで自分だけが地球人として異質であることに気がつくのは「みにくいアヒルの子」のストーリーによく似ている。ただ、私としては、アヒルより白鳥が優れたものであるといった解釈はしたくない。

C.価値からの解放

エイリアンであることを自覚すると、地球人がよくやる風刺や皮肉や現実逃避をしなくても済むようになる。

地球人はよく自己批判をする。これが地球人だけの特徴なのか、他の惑星の住人でもそういうことはよくあることなのかはわからない。たとえばデーモン小暮氏は地球人の姿をしているが、実は「悪魔」だそうである。これは地球人に対する風刺である、と捉えることも確かにできよう(真偽のほどはわからぬ)。とりわけ「悪魔」という概念は地球人が創った、しかも明らかに価値が入った概念だからそう解釈するのが妥当なようにも思える。しかし、「宇宙人」の場合は必ずしもそう考える必要はない。自分が事実として「宇宙人」であると信じることはそれ以上でもそれ以下でもない。別に地球人と宇宙人との違いをよく認識していこうと思うだけなのであって、地球人の悪いところをえぐり出そうとか、地球人を攻撃したり侵略したりする必要はどこにもないのである。また、地球人は事実として地球人なのであって「宇宙人」になれるわけもないし、逆も同じである。ただ、地球人のつもりで生きているが、どうにもそれではおかしい感じがしたときに「宇宙人」である自覚を持つと心理的に楽になれたりすることがある、というだけである。

そして、その自覚を「ルサンチマン」や「現実逃避」であると考える必要はどこにもない(考えてしまうなら、あるいはそう考えたいのなら致し方ないのだが)という点で、宇宙人であるという自覚は一種の地球人という価値からの解放であるとも言えるだろう。


筆者である深草自身は自分がラピュタ星の人であることを今は信じている。それは深草自身の地球人との違和感・齟齬の体験の積み重ねに裏付けられているので、結構磐石なのではないかと自分では感じている。深草の目に入る他の人々は大体地球で違和感なく暮らしている生粋の地球人ばかりにみえる。あなたの場合はどうか? あなたが深草と同じラピュタ星の出身であるとは流石に思わないが、ひょっとしたらあなたも地球人ではないかもしれない。もしあなたが他の惑星の出身であれば、そのことについて自己表現をしてくれるとラピュタ星人である私に通じることもあるかもしれない。そのときは、何か同盟関係のようなものを結べたらおもしろいのではないか、と思っている。