深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

【2020-08-11】感染対策で手話を学ぶのは文化盗用?

少し前(7月)の話になるが、毎日新聞で以下のような記事があった。感想をつけておこうと思う。

 

mainichi.jp

新型コロナウイルス感染防止の飛まつ対策として、大分県別府市教育委員会は給食時の手話の指導を2小学校で始めた。〔中略〕近隣の社会福祉法人「太陽の家」の共同出資会社「オムロン太陽」が同校のため2分間の動画を作成し、教諭と児童はこの特製教材で手話を学ぶ。/市教委は「学校側の指導とはいえ、無言で給食を食べる子供たちの姿は痛ましい。この時間を障害者への理解を深める機会に変えたい」としている。

大分県の複数の小学校で、ウイルス感染対策の一環として手話を学ぶ取り組みが社会福祉法人も交えておこなわれたという記事である。

 

これに対して文化人類学者の亀井伸孝氏が次のような投稿をおこない、物議を醸した。

亀井氏は「学ぶ児童」や「手話の普及のためとして参加する」聾者については批判しないとしながらも「全体の構図としては」「聞こえる人たちによる手話の利用」であり「文化の盗用」なのだという。「文化の盗用」というのが具体的にどういう意味であるのかはわからないが、字面だけをみても明らかに「聞こえる人たちによる手話の利用」がネガティブに、「盗み」になぞらえられるもののように捉えられていると言ってよいかと思う。しかし、「聞こえる人たちによる手話の利用」に何の悪いところがあるのか? なぜそれは非難されなければならないのか? その点が不可解に思われたのが物議を醸した原因だろう。

 

私も不可解であり、亀井氏がいったいどのような直観をもって抗議しているのかはわからない。たとえば、「聞こえる人たち」が "聾者のために手話を学んであげよう" といった趣旨の企画であれば、不快感を覚えるのも想像はできる。健常者が障碍者に何かを恵んであげようといったウエメセを感じる可能性があるからだろう。しかし、この記事の場合は、手話を使いたい当事者が感染対策という自分たちの利益のために学ぶのであるから、そういった福祉的な意味合いはないだろう。

 

私はむしろこのような企画は好ましいか、少なくとも非難されるべきではないと捉えている。「聞こえる人たちによる手話の利用」という構図そのものに非難されるべき点がみつからないということである(しかし亀井氏のツイートを額面通りに取れば、仮に関係者が善意に満ち溢れていてもこの構図そのものに責めがあると言っていることになる)。手話は言語の一種であり、それは日本語や英語やスワヒリ語と同じように誰にでも利用可能であるし、それらを学ぶことが非難される理由はないからである。むしろ手話の学習者を制限しようとするならば、それは手話の言語としての地位や公共性を損なうものであろうと考える。

 

「文化の盗用」という言葉に着目すると、これは文化を敬意を欠いた状態で(いい加減に)引用するという程度の意味合いがあるようだ。もし上記の記事のなかに「敬意を欠いた」記述があるとすれば、筋道はどうあれイライラする人が出てくるのも理解はできるが、特にそのような記述は見当たらない。亀井氏が何らかの不快感を抱いたことは事実だろうが、それを「文化の盗用」と呼ぶのは見当違いか、それなりに説明を必要とする氏独自の用語法だろうと推測する。

 

文化という言葉に着目すると、手話(ここでは独自の文法を持った言語としての手話を念頭におく)は言語の一種であるので、他の自然言語と同じように文法的辞書的側面(ルールの側面)と発話や修辞といった運用の側面があるだろう。このうち前者の面については、あらゆる言語のあらゆる規則が道具として利用されているし、それは言語が言語である限り当然かつ許容されるべきことである(だから手話だけ例外扱いする理由は見当たらない)。件の記事で児童が学ぶのもごく初歩的な言葉のルールに留まるだろう。既に聾者の間で形成された運用面、手話文化については「盗用」も何もまだその入り口にすら立てない段階だと思われる。

 

「聞こえる人たちによる手話の利用」の「聞こえる人たち」がどのような意味合いで名指されているかも解釈の余地がある。(1)ひとつは、いわゆる権力勾配論で、「聞こえる人たち」は多数派で強者なのだから、そういう人々が少数者・弱者の持ち物を奪ったり流用するのはけしからんという含みが考えられる。(2)あるいは「聞こえる人たち」は声で話せば事足りる人たちなのだから、必要もないのに手話を使うべきではないという含みもあり得るだろう。

 

(1)一つ目の権力勾配論については、言語は誰が学んでもよいはずであるという公共性と、健聴者が手話を学ぶことが聾者に不利益を与えることはほとんどないという点によって応えたいと思う。(2)二つ目の「用も無いのに」論は、上にも書いたように感染対策というそれなりの必要性から生じたことであるからこの記事には妥当しないことだと考える。

 

以上。