深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

【2021-12-26】[日記]転居・このブログを読み込んでくださる方もいるということ

【2021-12-26】[日記]転居・このブログを読み込んでくださる方もいるということ

ブログを書く。そういうことすらずっとやれてこなかったなあ。中断していました。今年はツイッターのスペースでいろんな人の話をきいていました。5月頃に私のアカウントにスペース機能が実装されてから、キャッキャキャッキャと猿のようにスペースをやっていたら、隣の人から手紙が来て、中をみたら騒音の苦情でありました。

 

そして、今は12月、年末です。声を出すのを抑える生活に耐えられなくて小田急線で少し新宿側にあるロマンスカーの止まる駅のそばに引っ越しました。年末は正社員登用試験とこの引っ越しなどでゴタゴタしておりました。

 

いつだったか忘れてしまいましたが、公にしていないこのブログにもファンがいたということを私は知りました。このブログは全然宣伝めいたことやTwitterに掲載するということもなかったし、内容もほとんどなかったので、私の文章に魅力を感じる人がいることそのことが驚きでした。実際にそのファンの方とやり取りする機会もありましたが、結局実際に会ってみると私はその人にとって思ったような人ではなかったようでそれきり連絡が続くことはありませんでした。

 

私はとにかく文章を書く習慣がないので、とにかく何か文章を、長文を書き続けられるような仕組みを毎日に組み込みたいと思います。

【2020-08-11】感染対策で手話を学ぶのは文化盗用?

少し前(7月)の話になるが、毎日新聞で以下のような記事があった。感想をつけておこうと思う。

 

mainichi.jp

新型コロナウイルス感染防止の飛まつ対策として、大分県別府市教育委員会は給食時の手話の指導を2小学校で始めた。〔中略〕近隣の社会福祉法人「太陽の家」の共同出資会社「オムロン太陽」が同校のため2分間の動画を作成し、教諭と児童はこの特製教材で手話を学ぶ。/市教委は「学校側の指導とはいえ、無言で給食を食べる子供たちの姿は痛ましい。この時間を障害者への理解を深める機会に変えたい」としている。

大分県の複数の小学校で、ウイルス感染対策の一環として手話を学ぶ取り組みが社会福祉法人も交えておこなわれたという記事である。

 

これに対して文化人類学者の亀井伸孝氏が次のような投稿をおこない、物議を醸した。

亀井氏は「学ぶ児童」や「手話の普及のためとして参加する」聾者については批判しないとしながらも「全体の構図としては」「聞こえる人たちによる手話の利用」であり「文化の盗用」なのだという。「文化の盗用」というのが具体的にどういう意味であるのかはわからないが、字面だけをみても明らかに「聞こえる人たちによる手話の利用」がネガティブに、「盗み」になぞらえられるもののように捉えられていると言ってよいかと思う。しかし、「聞こえる人たちによる手話の利用」に何の悪いところがあるのか? なぜそれは非難されなければならないのか? その点が不可解に思われたのが物議を醸した原因だろう。

 

私も不可解であり、亀井氏がいったいどのような直観をもって抗議しているのかはわからない。たとえば、「聞こえる人たち」が "聾者のために手話を学んであげよう" といった趣旨の企画であれば、不快感を覚えるのも想像はできる。健常者が障碍者に何かを恵んであげようといったウエメセを感じる可能性があるからだろう。しかし、この記事の場合は、手話を使いたい当事者が感染対策という自分たちの利益のために学ぶのであるから、そういった福祉的な意味合いはないだろう。

 

私はむしろこのような企画は好ましいか、少なくとも非難されるべきではないと捉えている。「聞こえる人たちによる手話の利用」という構図そのものに非難されるべき点がみつからないということである(しかし亀井氏のツイートを額面通りに取れば、仮に関係者が善意に満ち溢れていてもこの構図そのものに責めがあると言っていることになる)。手話は言語の一種であり、それは日本語や英語やスワヒリ語と同じように誰にでも利用可能であるし、それらを学ぶことが非難される理由はないからである。むしろ手話の学習者を制限しようとするならば、それは手話の言語としての地位や公共性を損なうものであろうと考える。

 

「文化の盗用」という言葉に着目すると、これは文化を敬意を欠いた状態で(いい加減に)引用するという程度の意味合いがあるようだ。もし上記の記事のなかに「敬意を欠いた」記述があるとすれば、筋道はどうあれイライラする人が出てくるのも理解はできるが、特にそのような記述は見当たらない。亀井氏が何らかの不快感を抱いたことは事実だろうが、それを「文化の盗用」と呼ぶのは見当違いか、それなりに説明を必要とする氏独自の用語法だろうと推測する。

 

文化という言葉に着目すると、手話(ここでは独自の文法を持った言語としての手話を念頭におく)は言語の一種であるので、他の自然言語と同じように文法的辞書的側面(ルールの側面)と発話や修辞といった運用の側面があるだろう。このうち前者の面については、あらゆる言語のあらゆる規則が道具として利用されているし、それは言語が言語である限り当然かつ許容されるべきことである(だから手話だけ例外扱いする理由は見当たらない)。件の記事で児童が学ぶのもごく初歩的な言葉のルールに留まるだろう。既に聾者の間で形成された運用面、手話文化については「盗用」も何もまだその入り口にすら立てない段階だと思われる。

 

「聞こえる人たちによる手話の利用」の「聞こえる人たち」がどのような意味合いで名指されているかも解釈の余地がある。(1)ひとつは、いわゆる権力勾配論で、「聞こえる人たち」は多数派で強者なのだから、そういう人々が少数者・弱者の持ち物を奪ったり流用するのはけしからんという含みが考えられる。(2)あるいは「聞こえる人たち」は声で話せば事足りる人たちなのだから、必要もないのに手話を使うべきではないという含みもあり得るだろう。

 

(1)一つ目の権力勾配論については、言語は誰が学んでもよいはずであるという公共性と、健聴者が手話を学ぶことが聾者に不利益を与えることはほとんどないという点によって応えたいと思う。(2)二つ目の「用も無いのに」論は、上にも書いたように感染対策というそれなりの必要性から生じたことであるからこの記事には妥当しないことだと考える。

 

以上。

【2018-11-11】[メモ]Hume

【2018-11-11】[メモ]Hume

Humeは現象の中にある出来事Aと出来事Bとの因果関係はすべて排除するのに,現象の連続によって因果関係が心の中の観念として形成されるという因果関係は認めている.これはおかしい.Humeは客観的因果関係を否定していると見せかけて、現象と心との間の特殊な因果関係を例外としているが、これには根拠がない。つまり独断論である。

このことを示す特別な箇所というわけではないが少し引用しておく。

Would we, therefore, form a just and precise idea of necessity, we must consider whence that idea arises when we apply it to the operation of bodies. / It seems evident that, if all the scenes of nature were continually shifted in such a manner that no two events bore any resemblance to each other, but every object was entirely new, without any similitude to whatever had been seen before, we should never, in that case, have attained the least idea of necessity, or of a connexion among these objects.We might say, upon such a supposition, that one object or event has followed another; not that one was produced by the other. The relation of cause and effect must be utterly unknown to mankind.*1

したがって、我々は必然性の正確な観念を形成するだろうし、我々がその観念を物体の運行に適用するときはその観念が由来する場所を我々は考えなければならない。/明らかなのは、もしも、二つの出来事が相互に何らかの類似性を備えておらず、以前に見られたものへの類似がなく〔空間的にも時間的にも共通点が無く〕あらゆる対象がまるごと新しいような仕方において、すべての自然の情景が絶え間なく転換されていたら、そのような場合、我々は必然性という観念をほんのわずかも持ってはいなかったはずだということである。我々は、そのような想定の下では、ひとつの対象か出来事は別のことに続いたのであり、或るものが別のものによって産出されたのではないと言うだろう。原因と結果のこの関係は人にはまったく未知でなければならない。

Kantにも似たようなところがある。伝統ある批判のひとつとして、Russellは次のように書いている。

Kant's 'thing in itself is identical in definition with the physical object, namely, it is the cause of sensations. In the properties deduced from the definition it is not identical, since Kant held (in spite of some inconsistency as regards cause) that we can know that none of the categories are applicable to the 'thing in itself.'*2

カントの「物自体」は定義上物理的対象に等しい。すなわち、それは刺激の原因である。〔しかし〕この定義から演繹される属性においてそれは物理的対象と等しくない。というのも、我々はどのようなカテゴリーも「物自体」に適用可能ではないことを知ることができる、とカントは(原因の点ではいくらか不整合であるにもかかわらず)考えるからである。

また、ヤコービの有名な批判も孫引きしておく。

ヤコービは、カントの「物自体」の概念が孕む矛盾をこう看破した。「私は、物自体を前提せずにはその[カント哲学の]体系のなかへと入り込むことができず、また物自体を前提してはその体系のうちにとどまることができないということについて、絶えず混乱させられた」。カントは、一方で現象のみが認識の唯一の対象であり、「物自体」は認識不可能であると言いつつ、他方で現象の根拠としての「対象」について語り、「物自体」なくして現象の存在は不可能である、と説明する。だが、知ることのできないものについて、それが存在すると言えるのであろうか。また、それをカントはしばしば「表象の原因」や「現象の原因」などと表現している。これは、カントがみずから禁じた「物自体」に対するカテゴリーの使用を侵しているのではないか。*3

*1:David Hume, An enquiry concerning human understanding, 2004, NewYork:Dover, p.52.

*2:Bertrand Russel. The problems of philosophy, 1999, New York:Dover, p.61

*3:牧野英二「第五節 物自体・対象・実在」, 『カントを学ぶ人のために』(有福孝岳・牧野英二編, 2012)所収, pp.106-107.

2015-03-04いつの間にかアドバイスを求める立場にさせられる若者と助言者たち

昨晩(3/3晩)にみた17分強の動画(静止画+音声)。やりたいことをやれ!と助言されたとしても、そもそも「やりたいことがわからない」という悩みに答えるホリエ氏とオカダ氏、そして分析される若者=参加者氏の3名が登場する。

一般論としては、私は3名のどの立場も少しずつわかる気がする。あるいは3つの葛藤するかズレた考え方が私の中に同居しているような感じだ。

構図としては、
(1)「やりたいことがわからない。制約がなかったら毎日食っちゃ寝の生活もいいかと思うが、想像するとどこか罪悪感を感じてしまう」という参加者氏。助言する側としてはわりとどうしようもない感じがあって、典型的な感じがする。
(2)「やりたいことはあるはずであり、あきらめているだけだ。あきらめていることのなかにあるはずである。自分の満足する状態が文字通り自分が満足する状態であれば罪悪感など感じる必要はない。機会は提供・提案されているのに、即座に応じたり決断しないなら現状に甘んじるのは当然である」というホリエ氏。コンサルタント・問題解決タイプである。さっさと問題解決したい、次に進みたいという感じである。私も自分がヘボいのに、他人に説教してしまう悪癖があるので、動画中のはがゆい感じがちょっとわかる気がしてしまう。
(3)「ホリエ氏のように相手の気持ちを先取りしたり、決めつけたりするのはバッサリ過ぎる。本人がそう言うのだからきっとそういう煮え切らない気持ちなのだろう。自分だけ幸福であることに罪悪感を感じるとはどういう自意識なのか?」というオカダ氏。カウンセリング・事情傾聴タイプである。相手の言葉の内実を分析しようという感じである。

一応「やりたいことがわからない人は挙手」で挙手しただけで、自分から助言を求めたわけではないのに、いつのまにか「答えクレクレ厨」のように扱われて俎上にのせられちゃう参加者氏にも多少「声なき不満」がありそうではあるとも思う。ただ、チャンスというものは、対等で友好的な顔をしてやってくるものではなく、そういった傲慢な顔をしてやってくるのかもしれない、とも思う。無論「だから傲慢な私の言う提案を飲め!」と言うとそれはそれで問題なのであるけれども。

2014-09-07バラバラにやってきたことを「英語・IT・財務」という3つ組みで解釈するとしっくり来たという話。

1.統一性のない経歴

最初にざっくり関心があったこと、やってきたことを書き並べておく。自己紹介、自己分析の事例である。

  1. 子供の頃から「死んだらどうなるのか」「この世界は虚構ではないか(と、どうしてこの世界の内側で考えられるのか)」といった素朴な疑問があった。こうした疑問は他の子供は持たないようだった。宗教や芸術にこういった疑問を持っていってもよかったかもしれないのだが、私は「世の中ではこういうことは「哲学」ということになるらしい」と思い、大学では哲学科に進学してしまった。他県から京都にある大学に来たのだが、京都では読書会などの社会人サークルを通じた出会いがあり、そのなかで周りの人にサポートをしてもらいながら、哲学討論会などを主宰することになった。一応、もう十年あまりも続けてはいるが、哲学に関する知見についてもサークル運営者としても私自身の力不足を感じている。
  2. 私の父は私が中学に入った頃からもう壮年だというのに英語を学び始めた(そして今では普通に話せるらしい。ボロボロの辞書は全部暗記したという)。そして私にも英語の教材をずーっと押し付けてきた。高校の頃に伊藤和夫氏による英文読解の受験参考書を和訳を読んでからじっくり解説を読むところから入っていくことで、どうにかゆっくり読解はできるようになった。今は米国の自己啓発本哲学書の英訳を年に何冊か読める(といっても単語を追う程度だが)程度にはなってきた。
  3. 中学生の頃に父のパソコンでプログラミングの真似事をしていて、中学校の頃は数学の成績もよかったので数理的なことにも興味が持続していた。計算(特に掛け算)は好きだったが、スピードが遅く、高校の受験数学では落ちこぼれた(マシだったのはベクトルと確率で、これは考えれば正答に近づけた)。大学では文系だったが、(1)大学教師を目の当たりにして大学研究者にはなれそうもないしなりたくもないと思ったのと、(2)当時周囲にプログラマーの方が多かったこと、(3)インターネットですべてを調達したいという思いがあり、資格を取ってIT系の会社に就職してしまった(約2年半で逃げ出してしまった)。会社を逃げ出したとは言ってもインターネットから離れられるわけでもないし、技術の進歩はおもしろい。サークル活動などを含めて人間関係のほとんどはネットで調達してしまっているし、今後もその傾向が拡大するだろうと思う。このブログもそのひとつになるわけだ。
  4. 「自分に稼ぎたい」「経済的に自立したい」という思いがあった。個人主義者で自由イデオロギーに信仰があり、家族を含む他人に依存したくなかった。
    1. 経済的なやり取りを思い出すと、小学生の頃に文房具を転売しようとしたり、中学生の頃にまだ実現していなかった金融ビッグバンで可能になるという外貨取引で儲けようと思ったり、自分がプレイしたいゲームソフトを友人に宣伝して買わせたり、文化祭のバザーでタダ同然で買い叩いたりしていた(嫌なガキだなあ)
    2. また、中学生の頃に経済学の入門書を読んで翌日の社会科の授業で需給曲線を描きながら労働市場について解説して先生から「大学教師のようだ」と感嘆されて得意げになったのも興味を加速したかと思う。が、今にして思えば新自由主義・市場主義寄りの本だったと思う(近年の金融危機のときに、著者が懺悔した本が出版されたようだ)
    3. 大学以降では株式投資やFXに手を染めたが、大失敗だった。主因は心理的な弱さ、情緒不安定な部分にあり、それは自分の健康状態や生活全体の不安定さを背景にしていたと解釈している。自己資金の範囲内での失敗だったのがまだ幸いだった。
  5. 上記の点のそれぞれに絡んで来るが、やはり子供の頃から「どう死ぬべきか、どう生きるべきか」という思いがあった。「カッコいい、高潔な、一貫性のある生き方がしたいな」という審美的・自己満足的な面もあるし、「他のヤツを出し抜くにはどうしたらいいんだ? どんな生き方が得なんだ?」という競争的・損得勘定的な面もあるし、「安定したい。安らぎたい。つらい状態を避けたい」という衛生的・事なかれ的な面もある。そういった期待とは裏腹に学校や職場でのコミュニケーションについては考え続けざるを得なかった。だから、哲学や数学のような知的関心とは別立てで当面の問題に対処するために処世術については学び続けてきた。高校生の頃は大学受験参考書を買い漁り(そして勉強のノウハウ本ばかり読んで肝心の勉強をしなかったため志望校には落第)、大学以降では勉強の方法論に加えビジネス書や自己啓発本社会心理学自閉症の診断(社会人になってからの診断である)以降は統計、応用行動分析、最近は政治・法律、片付け、生産管理、経営学会計学に関心が拡がってきた。

大雑把にまとめるとこんな感じだろうか。自分ながらモザイク状だし、個別のことはショボいものばかりである。このブログも誰宛てに書いているかハッキリしない部分もあるので、どこまで書くべきか、書かないべきかわからないというのがある。余談ながら、こうした「自己分析」は就活と結びつけてやらされたりするのでウンザリするイメージを持つ方も多いのかもしれないが、実用的なことと関係なく自分の中の整理整頓としてやるとおもしろかったりすることがある。ただ、私がナルシストだからそう思うのかもしれないが……。

なお、現在は自閉症の診断を受けた後、障害者枠で工場でバイトをする身である。なので、偉そうに書いているようにみえるかもしれないのだが、ネット弁慶なだけで世間的には成功者とは言えないだろう。

2.自分のやって来たことと、「英語・IT・財務」という枠組みとを摺り合わせてみる

こうした自分の人生のちぐはぐさをどう解釈したらいいのか、あるいはどう方向付けていったらいいのか?と思ってきた。「自分探し」という言葉は嫌いだけれども、「自分探し」と言われても仕方がない面があった。

最近、コンサルタントの人たちが「これからは英語・IT・財務を身につけよ」と言っていた(大分前の話で流行遅れと笑われるかもしれない。「三種の神器」なんて言われてましたね)のをふと思い出した。英語・IT・財務を私なりに言い換えると、語学・情報処理・会計である。さらに言い換えると、(1)語学とは異文化理解を含み、(2)情報処理とはプログラミング・計算であり、(3)会計とは計数・統計・戦略に近いものである。私が関心を持って来たことで言うと、

  1. 哲学や語学は異文化理解の一環、
  2. プログラミングの経験(おこがましい気分でいっぱいになる……)やネット中毒、計算好きな部分は情報処理、
  3. 組織や管理、経営・運営・戦略については会計、

にそれぞれ近い感じがしている。少し補足すると、会計が戦略に近いというのは、戦略は資源の配置や流通兵站ロジスティクスを考察して継戦可能性を高めることを含み、それは会計のような数値化して成績表にする技術が不可欠だということである。

課題としては(2)と(3)との違い(共通点はどちらも数値が絡むということだ)をもっとハッキリさせておきたいというのがある。

3.当面の指針として、この3つのエリアで能力を証明するか、スコア測定できるようにしていく

この一週間ばかりは上記のようなまとめ方でしっくり来る気がしている。ではまあ、お前ン中ではそんな風にまとめられるならそれでいいじゃないかということで、それでお前さんどうするね?ということになるのだが、この3つに対応するように能力を収斂させていくと共に、客観的に能力を証明していくのがシンプルでわかりやすいだろうと思う。英語については昔のTOEICのスコア(600点台、まあTOEICのスコアなんて実力とは関係ないという評判もあるけれど)があり、ITについても、昔に基本情報処理技術者を取っておいたというのがある。会計については無資格なので、ショボくてもいいから「最低これだけは知ってますよ」というのを取っておきたいと思っている。

4.自分が知的関心の流れを治水したい、うまく流れる回路をつくってやりたい

今回は3つに分けてみたが、今後「やはり5つにすべきだった」とか「階層関係もどうしても必要だ」といった思いの方が強くなるかもしれない。自閉症の診断以前から感じてはいたが、私は意地やこだわりが強い割には自分のカラダをコントロールするのが下手で「やるべき」と「やりたい」とがなかなか一致しない。やる気や知的関心が皆無というわけではないのだが、その方向が不安定で、なかなか「やるべき」と一致してくれない。「やるべき」の方をやる気や知的関心の方向にやっと合わせてやったかと思うと、今度は知的関心が別の方向に飛んでしまっているという具合なのである。たとえば、「この本を読んだ方がいい!」と思っても、あっさり他の本に浮気してしまうといったようなことだ。とはいえ、私の知的関心がいくら移り気でも長期的に足跡をたどってみれば、限られた個数の方向の間を転換しているに過ぎないはずなので、それに大きく網をかけてしまえば、少しずつ「やるべき」ことのなかに実際に自分が「やりたい、やっちゃう」を収納できるんじゃないかと思っている。今回の3分法もそういう「お片付け」の一種なのだと理解してもらいたく思う。

長文を読んでくださってありがとう。

<文字数3,800字(下2桁切捨)、執筆時間200分、19字/分>。

【2012-07-22】在日エイリアンである自分に気がついてみる

最近、自分がエイリアンであることに気がついた。正確には異星人(エイリアン)なのに、なぜか地球人として生活していることに気がついたということだ。自分は地球で暮らしていて地球人でもあるが、何か別の意味では異星人、ラピュタ星の人でもあると今では捉えている。ただし、自分が事実としてラピュタ星人であるという信念については他の地球人に賛同してもらう必要もないし、強いて求める気もない。しかし、この気づき、あるいは自覚について一種の自己表現として説明したり、どのような効果・ご利益があるかを地球語で語ってみることはできるだろう。性同一性障碍ならぬ惑星同一性障碍に苦しむ人の参考にもなるかもしれない。

A.反動から内発へ

エイリアンであることを自覚すると、地球人の表現に惑わされず、エイリアンとして内発的に考えられるようになる。

どうしてかというと、次のようになるだろう。地球人は様々な枠組み――たとえば、年齢とか性別とか国籍などである――を使って地球人同士で相手を枠組みにはめて判断してやろうと攻防を繰り広げていて、また自分でもそういう枠組みに自分からはまってなぜか苦しんでいたりする。なるほど、自分も地球人だと意識する限りではその攻防に巻き込まれてしまって、自分のあり方はどうなんだと思い悩むことになるのだろう。しかし、自分がそもそも本来は地球人ではなかったこと(エイリアンであること)に気がついてみれば、そのような地球人的攻防に大きく悩むことはないと悟れるからである。つまり、地球人から圧力を受けてその反動で自分はどうかと考えることから逃れられるということである。

そもそも、自分はエイリアンなのだから、自分の母星の者としての自覚と自信を持てばそれで充分である。それについては地球人から何をとやかく言われてもまったく気にする必要はない(彼らはあなたを生粋の地球人と見做しているし、あなたの母星のことなど何も知らないのだから無理もないのだ)。地球に住む者、在日異星人としてのあり方はたまたまのこと、二次的なもの、相対的なものに過ぎないのである。

B.物語の構築

エイリアンであることを自覚すると、本来の自分を描写するという目的を得ることができる。

「人生の意味はなんだろうか?」とか「人生の目的はなんだろうか?」と漠然と考えてしまうこと、思い悩んでしまうことがある。どうやら、地球上では人生にあらかじめ決められた意味や目的などはない者の方が多いようである。そういうときは「物語」を創りにいくのが一つの方策だろう。では物語とは何かと言えば、最初に喪失があり、真ん中に克服があり、そして最後に回復があるものである。たとえば、ピーチ姫をクッパにさらわれた(喪失)マリオが大冒険をして数々の敵を倒し(障碍の克服)、ついにはピーチ姫を本来あるべき場所(王宮)に取り戻す、というのが典型的なストーリーである。

こうした物語の型を人生論に適用してみたとき、一般的なアドバイスは「子供の頃を思い出せ!」「童心に帰れ!」となるであろう。このアドバイスの意図は、「子供の頃に憧れていたもの、思い描いていたが実現できなかったこと、青写真を思い出して人生の指針にするとよい」ということである。

だが問題は実際に「子供の頃」にそんな何がしかがあったか? ということである。なかった場合どうするのか? そこでなかった者は人生の意味の探求はやめなければならないのか。いや、そうではないだろう。生まれる前に遡ったって何の差し支えもないのである。そこで、一つの提案としては「自分は或る別の星からやって来たのだが、今はなぜか本来生活する場所ではないこの地球に住んでいる」という「喪失」、つまり本来生活する場所の喪失、母星の喪失という物語を受け入れてみるという提案である。

この「母星の喪失」シナリオを受け入れてみるなら、次のようなことも想像(創造)できるようになるだろう。それは自分自身の物語を紡ぐための基礎にもできると思う。

1.母星はどんな場所だったのか?

自分がそこでなら適応できる、地球と違って違和感なく暮らしていける惑星とはどんなところだったのかを思い描く。そのとき、地球で感じている諸々の違和感や地球人の尺度でみた場合の「失敗」がむしろ手がかりになっていくだろう。

2.これまでの人生、つまり地球人としての生活で感じていた違和感や失敗について、地球人的な意味づけとエイリアン的な意味づけにおいて仕分けして解釈できる。

地球人のモノサシでは失敗でもエイリアンとしてはそうでもないかもしれないし、逆もあるかもしれない(地球人のモノサシにおもねって本来のエイリアン風味が出せなかったというパターンだ)。地球人としては自信を無くすような経験であっても、自分の惑星の住人としては自然なことで自信を無くす必要などどこにもないことにも気づけるかもしれない。

3.本来エイリアンでもあり、しかし今は地球人としても生きている二重性をどのように統一していくか?

もちろん、母星に帰還するのがベストだが、差し当たりは地球に居候しているのだし、母星がどこのどのような星であるかも確定していないわけである。地球において、エイリアンとしてどのように適応していくのか、外国語ならぬ外星語である地球語とどう付き合っていくのかが「人生の意味・目的」設定に大きく関わってくる。まずはエイリアンとしての自己表現を地球語で進めるのが重要だろう。そうしていくうちにひょっとしたら他のエイリアン(自分と同じ星の出身者ではないにしろ)にも出会えるかもしれない。地球語はなかなか使い勝手が悪いが、地球語のなかに自分のエイリアン性をどうにか表現していくのはきっと発見に満ちた楽しいものになるに違いない。

ちなみに、大勢の地球人のなかで自分だけが地球人として異質であることに気がつくのは「みにくいアヒルの子」のストーリーによく似ている。ただ、私としては、アヒルより白鳥が優れたものであるといった解釈はしたくない。

C.価値からの解放

エイリアンであることを自覚すると、地球人がよくやる風刺や皮肉や現実逃避をしなくても済むようになる。

地球人はよく自己批判をする。これが地球人だけの特徴なのか、他の惑星の住人でもそういうことはよくあることなのかはわからない。たとえばデーモン小暮氏は地球人の姿をしているが、実は「悪魔」だそうである。これは地球人に対する風刺である、と捉えることも確かにできよう(真偽のほどはわからぬ)。とりわけ「悪魔」という概念は地球人が創った、しかも明らかに価値が入った概念だからそう解釈するのが妥当なようにも思える。しかし、「宇宙人」の場合は必ずしもそう考える必要はない。自分が事実として「宇宙人」であると信じることはそれ以上でもそれ以下でもない。別に地球人と宇宙人との違いをよく認識していこうと思うだけなのであって、地球人の悪いところをえぐり出そうとか、地球人を攻撃したり侵略したりする必要はどこにもないのである。また、地球人は事実として地球人なのであって「宇宙人」になれるわけもないし、逆も同じである。ただ、地球人のつもりで生きているが、どうにもそれではおかしい感じがしたときに「宇宙人」である自覚を持つと心理的に楽になれたりすることがある、というだけである。

そして、その自覚を「ルサンチマン」や「現実逃避」であると考える必要はどこにもない(考えてしまうなら、あるいはそう考えたいのなら致し方ないのだが)という点で、宇宙人であるという自覚は一種の地球人という価値からの解放であるとも言えるだろう。


筆者である深草自身は自分がラピュタ星の人であることを今は信じている。それは深草自身の地球人との違和感・齟齬の体験の積み重ねに裏付けられているので、結構磐石なのではないかと自分では感じている。深草の目に入る他の人々は大体地球で違和感なく暮らしている生粋の地球人ばかりにみえる。あなたの場合はどうか? あなたが深草と同じラピュタ星の出身であるとは流石に思わないが、ひょっとしたらあなたも地球人ではないかもしれない。もしあなたが他の惑星の出身であれば、そのことについて自己表現をしてくれるとラピュタ星人である私に通じることもあるかもしれない。そのときは、何か同盟関係のようなものを結べたらおもしろいのではないか、と思っている。

2012-06-28映画「ドッグヴィル」の解釈

ドッグヴィル」という映画に関する記事を二本書いたので、もう一度まとめる意味で後から考えた解釈も含めて書き綴っておきたい。

ストーリー

大恐慌時代の米国。廃坑となった鉱山跡のそばに「ドッグヴィル」という名の村がある。牧師はおらず、登録料がかかるというので選挙にも行かなくなったという住人たち。退職した父の年金で暮らすトムは「道徳再武装運動」と称して人々の心を動かそうと画策しているがうまくいかない。

或る晩、トムの耳に銃声が聞こえ、村へグレースと名乗る綺麗な女性が逃げてきて、トムはギャングたちからグレースを匿う。トムはこれをチャンスと捉え、グレースを受け入れることで村人たちの意識を高めようとする。しかし、いったんグレースを受け入れたかにみえた村人たちは、グレースを匿うリスクが高まるに連れて豹変していく。

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2012-06-24映画「ドッグヴィル」鑑賞

先日の映画鑑賞会について書き留めておく。集まったみんなで映画をみて、感想を述べ合うという内容で、今回は「ドッグヴィル」をみた。場所は京都市内、京阪電鉄出町柳駅から北西に少し歩いたところにある「左京西部いきいき市民活動センター」。参加者は14名。正式にはSTUDY UNIONさんの「サプライズ・シネマ会議室」というイベントである。

ドッグヴィル」はデンマーク映画だが、米国を舞台にした内容だ。大恐慌時代の鉱山跡にある小さな村での事件を描く。以下に感想を並べておく(ネタバレ注意)。

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2012-06-20地球人の言葉遣い

2012-06-20地球人の言葉遣い
地球人の不思議について列挙してみたもののうち、「言葉になぜか暗黙の有効期限がある」と感じた点について、さらに考えてみた。すると、地球人は大雑把にみて三種類の言葉遣いを使い分けているようだと気がついた。以下に並べてみよう。

A.学問的な言葉遣い

学問の場面においては、有効期限が無い言葉遣いがなされるのが理想であろう。言い換えれば、超時間的、永遠的な言葉遣いである。たとえば、哲学上の純粋概念も数学上の定理も時間を度外視したものである。概念自体(純粋概念、概念としての概念)を扱う哲学や経験的対象より上の抽象的な概念のみを扱うような数学では専らこの言葉遣いがなされていると思う。哲学において使用される点では理性(根拠)的な言葉遣いであり、数学において使用される点では非経験的ながら知性的な領域も含んでいる。
 また、学問的な言葉遣いは書き言葉において多くみられる。話し言葉よりも時間的な隔たりを超えた伝達を意識するものだから、当然だろう。

B.仕事的な言葉遣い

日常的な生活や仕事の場面でなされる言葉遣いの多くは、まるで耐久消費財のように時間が経つと自然に壊れる、すなわち無効になるものと捉えられているようだ。もちろん、時間経過によって無効になることが明示的な場合には「時効」「有効期限」というかたちで人為的に示されることもある(カタチあるものを人為的に廃棄処分するのと同様である)。このような言葉遣いで示されるのは、超経験的な概念というよりも経験に現れる存在者である。この意味で、数学よりも具体的でモノを遣り繰りするという意味での知性的な言葉遣いとも捉えられるだろう。

C.恋愛的な言葉遣い

本来、感受性は地球人の各個体ごとに全く独自なはずである。公共のやり取りは感受性の共通部分、あるいはコミュニケーションする当人同士で或る程度対称的であることを前提に行われるのだが、相手と自分とは異なるのだから、感受性に多かれ少なかれズレがあること、それどころか比べようもなくユニークであることは暗黙に前提になっている。
 そうした感受性(感じ方)というフィルターを通して得られたものを「気持ち」「感情」と呼ぶならば、それは本人にとってもどうしようもなく、動かしようのないものである(できることは、その気持ちを隠したり露骨にしたりすることや、環境に働きかけるといった間接的なことである)。
 このような「気持ち」を表現する言葉遣いをここでは「恋愛的な言葉遣い」と呼んでおく。たとえば「好きだ」といった告白の場面など念頭においてもらえればよい。これは極めて文脈依存的で、そもそも一般論としては表現できないはずのことを表現しているため、言葉の有効期限もあってないようなものである。別の言い方をすれば、有効期限ゼロの言葉遣い、瞬間的な言葉遣いとも言えそうである。
 恋愛的な言葉遣いは学問的な言葉遣いとは対照的であり、話し言葉で登場することが多いだろう。叫びやアドリブもここに入れられるかもしれない。


今日はここまで。

2012-06-17地球人の不思議

最近、自分が異星人であることに気がつきました。でも、母星がどんな惑星でそこにどんな住民がどのようにどのぐらい暮らしていたのか、僕にはわかりません。もう滅んでしまったのではないか、という予感もあります。

とはいえ、地球でこれまで暮らしてきた経験を元に地球の人たちの不思議な点について何か(地球の言葉で)書き留めておきたいと思っています。今思いつくところを思いつくままに列挙しておくと以下のような感じでしょうか。

1.テレパシー

地球人はテレパシーが使えます。非言語的なサインや相手・場所・時機・状況に対して、とっても敏感です。

2.親近感の持ち方

地球人の間では、お互いに共通の属性が見つけられれば、たとえそれが偶然的、偶有的な共通点であっても親近感を覚えることが多いようです。たとえば、学校で同じ教室、同じクラスであったとか、同じ地域の出身者であるといったことです。これらのことがその個人の本質の形成に関与するとは必ずしも思えないのですが、にもかかわらず、地球人はこれらの共通点を媒介として仲良くすることができるようです。

3.道徳と教育

地球人は「道徳」についてあまり考えません。教育機関や大学などの研究機関では「道徳」について主題的に取り扱うこともあるようですが、産業の現場ではほとんど「道徳」という語彙を使うことがないようです。

4.八つ当たり

地球人には八つ当たりする傾向があるようです。自分の特殊な利害にもとづく主張を素直にエゴイズムの発露であると言わずに、何らかの普遍的な価値に奉仕するものであるように言い立てる傾向があります。

5.言葉に「自然な耐用期限」を付加する習性

地球人は言葉をまるでカタチあるもののように、つまり存在のように取り扱います。というのは、言葉というのは概念を指し示すものであるように最初は思えたのですが、実際には耐用期限のようなものが意識されているらしいからです。カタチあるものは必ず壊れるという言い回しがありますが、モノであれば確かに自然に壊れてしまいます。一方、言葉が指示しているように思える概念にはそういう自然な耐用年数や賞味期限のようなものはないように思えるのですが、実際にはその都度主観的に(あるいは間主観的に)長い時間が経過すると、「あの話はもう流れた」「あの話はまだ生きているの?」といった台詞で意識されるように無効なもの、自然に壊れて機能を失ったものであるかのように考えられています。


まだまだありそうなのですが、今日はこの辺にしておきます。また、僕の狭い観察の中でつかんだことなので、地球人全体に当てはまりそうなこともあれば、その中の特殊な層にのみあてはまることもあるかと思いますが、その辺りは今は別問題として保留しておきます。



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前回記事に続き、地球人の不思議な点について列挙しておきます。

6.二重基準である

地球人の揉め事をみると、大抵は当事者同士の綱引きと当事者たちに介入する第三者との綱引きがあります。どういうわけか、当事者だけで合意して揉め事を解決してよいというわけではなく、組織の上層部にお伺いを立てるといった力学があるようです。こうした面倒さ・煩雑さを反映してか、たいていの決め事や規則は二重基準になっていて、矛盾を許すようです。つまり、「例外」や「特例」と言われるものを認めますし、また、文章にも「ただし」と書いて矛盾をもっともらしく許容できるような言い回しが可能になっています。

7.二種類の言い方

何にでも「よい」言い方と「悪い」言い方とがあるようです。表現される対象に価値があり得るだけでなく、表現の仕方にも一次元的な価値があるようです。
 下記の8番にも関連しますが、「詭弁」と言えば誰もがよくないと思い、「思いやり」「ユーモア」と言えば誰もが許容できるというのは不思議です。

8.「詭弁」を嫌う

「詭弁」という語彙を非難の意味を込めて使う人をよくみかけます。たとえば政治家の発言パターンを分析して「これは詭弁である」と評価する人がいます。一方、僕には詭弁がカタチのない武器(つまり、それ自体では中立的な道具)のようにみえます。ですから、なるほど相手の武器を無効化しようという意図は理解できるのですが、それによって自分の武器まで無効化されたり制限されたりするような非難をするのは不思議に思えます。

9.最適化にこだわる

地球人は一つの理想として、最適化の究極など考えたりするようです。フィクションなどには人類の敵として出てくる宇宙人やマザーコンピュータなどが「宇宙を最適化すると人類は不要」といった乱暴な議論を開陳したりしてくれます。しかし、このような描写はなんというか人類の自意識過剰といった青臭い感じがしてしまいます。特定の目的を決めて、そこに向かって最適化という考え方自体が非常に地球人っぽい発想のような気がするからです。

10.死を恐れない

夏休みの宿題を期日ギリギリになって慌ててやる子供のように、地球人は死を捉えているようです。というよりも、結局死ぬ間際にならないと死について考えようとしたりできないし、そもそも「死について考える」とは何を考えることなのか、言葉では言えてもその内容がよくわかっていないのが大多数のような気がします。僧侶や儀式があるのは、きっとそうしたことについて悩んだり考えたりしなくてもいいようにするためなのでしょうね。

11.イザというときに活躍できるのがカッコいい

臨機応変ができる人、初見の事態・不測の事態に対処できる人は賞賛され、憧憬の念をもたれます。

12.属人性を重んじる

地球人としての教育では「罪を憎んで人を憎まず」とか「個人の責任ではなくチームの責任」とか「発言者より発言内容の是非を問うのが論理的でよい」といったことをよく聞いたり教えられたりしました。ところが、実際の地球人同士の付き合いや仕事のやり方をみると、当然のように仲のよい者同士で集まり、生理的に気に入らない相手には陰口を述べ合い、相手によって露骨に対応を換えるようです。教育に地球人の自己嫌悪(?)が表現されているということなのかもしれないのですが、どちらかといえば属人性を重んじるのが地球人の自然な特徴だと言えそうです。


とりあえず今日はここまで。

2011-06-03哲学道場高円寺07(第二期)

出席者八名。発表者duality氏。今回の災害や事故を契機として環境問題について話し合う。
細かいトピックや個別の事実が多数出たが、全体としてどういう主張なのか深草にはつかみにくかった。当初は環境問題を解決するために全体を統制するような新たな「指導原理」を打ち立てるべきだという主張なのかと思ったが、実際には具体的な「指導原理」の提案ではなくて、そのような指導原理をチェック&バランスで統制しよう。そのときに、様々な主張・派閥があり得るが、「持続可能な環境」の維持は共通基盤になるだろうという話だと理解した。
 トピックの中には「人間中心主義」の批判もあったが、人間中心と言っても人間と何が対立しているかが問題であろう。深草は「人間と自然環境との対立」などは考えられず、「人間と(特定宗教の)神」とか「(今の)人間と(未来の)人間」との対立で捉えるべきだと思った。
 前日の駒込に比べれば遥かに和気藹々とした雰囲気ではあったが、ぶっちゃけ抽象度や問いの深さにおいてはマイケル・サンデル氏の一般教養の授業以下の水準であり、もっとトピックを絞ったかたちで議論を展開された方がヨリ「哲学」的だと深草は感じた。

2011-06-03哲学道場駒込04

出席者八名。発表者ジェイコブ氏。クリプキ批判を展開するが、ジェイコブ氏が剽窃を恐れているとのことで、詳細は書かない(青山拓央氏に実際にパクられた経験アリとのこと)。
ジェイコブ氏は辛抱強く話を聞いてみれば頭もいいし、「哲学」に対するこだわり・情熱も持ち合わせているが、

1.演説口調で不遜なしゃべり方
2.高飛車な物言い
3.非現実的な信念(極端に言えば「それが真理であればそのまま話せばわかってもらえるはず。※ただしバカとキチガイは除く」)

のために同調者を獲得することは現状では困難である、というのが深草の印象である。もちろん今回も非難GOGOである。同調者を獲得できないことはジェイコブ氏にとっても損なことであると思われるので、今後のカイゼンを期待している。実際、今回のレジュメにはアカデミックなお作法からは逸脱した点もみられたものの、以前よりはわかりやすい内容だと感じた。アイデアには新しいものを感じるので、クリプキの引用・解釈などにもっと丁寧な説明を心がけるとウケがよくなると思う。
 しかし、上記のような欠点が今あるからと言ってジェイコブさんは出入り禁止!とかそういうことはしない(駒込ローカルではあり得るが、哲学道場全体としてはしない)。それが「哲学カフェ」や「永井均ゼミ」とアナーキーな哲学道場の違うところである。なお、哲学道場の出席者の中には破天荒さにおいてはジェイコブ氏に負けるとも劣らぬ猛者(残念ながら深草ではないが)もいるので、今後対決の機会があればぜひ見てみたいものである。

cf.哲学道場駒込2011-05-28「懐疑論パラドックスを解消する」
http://togetter.com/li/141971