深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

2010-12-19恩は仇で返せ――「ドッグヴィル」と「マンダレイ」の感想

DVDを借りて「ドッグヴィル」という映画と「マンダレイ」という映画をみたので簡単に感想を述べる。ネタバレは避けようと思っている。

ドッグヴィル」は小さく閉鎖的な村の物語である。この村には神父がいない。貧しい村だが、生活に困らない作家志望の青年が住んでおり、みんなを集めて何かしようとしている。そこに正体不明の女性が落ちのびて来る。青年は彼女の処遇をみんなで考えようとする。

登場人物は限られており、役者はスタジオの中で演じる。スタジオには建物や仕切りがなく、それに相当する場所の床に白いラインが引かれているだけである。「みえない壁」だ。だから主人公が誰かと話している背景で、村の他の人々が日常を送っているのがみえる。これは続篇の「マンダレイ」においても踏襲される演出である。

尺の長い映画だが、メッセージは非常にシンプルだ。私はコミュニタリアンマイケル・サンデル氏のことが念頭にあったためもあって、リベラリズム批判だと受け取った。ただし、リベラリズムを批判するとしても、結果としてそれに代わるものとして提出される答えは人それぞれ、共同体それぞれであろう。ナイーヴな第三者は余計なことをしない方がいい。ドッグヴィル、すなわち「犬の村」の人々は罪深いか? 私はそうは思わない。クリスチャンではないからね。

マンダレイ」もまた、閉鎖的な農園の話だ。70年前に廃止されたはずの「奴隷制」がそこでは未だに続いている。ちょうど女主人が死んだのを機会に主人公は農園で働く黒人の「奴隷」たちに自由を与えてやり、農園の経営に介入していく。

あらゆる情報は公開されるべきであり、自由は万人に与えられるべきであるという米国らしい「グローバル・スタンダード」が散りばめられている。リベラリズムはしかし、或る意味ではパターナリズム、ないしはファシズムと区別がつかない。配給制共産主義的とすら言えるだろう。

だが、主人公自身もまた、神にはなりえない。農園に商売をしにやってくる山師の男が小気味の良さを掻き立てる痛快な作品だった。ストーリーは「ドッグヴィル」よりも技巧的で、前作のインパクトを推す評が多いようだが、私はこちらの方が好みだ。

だが、なぜ「グローバル・スタンダード」が通じないのかと言えば、それは舞台設定がいずれも閉鎖的だからであろう。そこには、閉鎖的でなければこれほど単純化できないという創作上の技術的な理由があると同時に、現実がどこまで閉鎖的なのかは実は誰にもわからない、というテーマ上の理由が存在する。もっとも、わからないからこそ現実なのだが。