2010-07-19第二回奈良哲学道場「四項図式」
本日は第二回奈良哲学道場でした。私が下記のレジュメを用いて発表を行いました。私自身は「恣意的な図式だ」「例外がある」「応用が利かない」といった批判を期待していたのにもかかわらず、「個別の適用の仕方はともかく図式としては割と当たり前で拍子抜け」「結局脱構築じゃん」といった感じの反応を頂いて (´・ω・`)にょろーん
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哲学的思考のための四項図式発想法
哲学・思想においては至るところに二項対立が見出される。こうした二項対立から脱出するためにはどうすればよいか。言い換えれば、循環論、水かけ論を避けるためにはどう考えればよいのか。本稿では、この問いに対して包括的とまではいかないにしても指針となる「四項図式」の解説を行い、その活用を促したい。
哲学史における当事者的なものと第三者的なもの――二項対立から三項図式へ
西洋哲学においては、理念的なものと日常的なものとの関係、共同体と個人との関係、実在と人間との関係、理論と実践との関係、神と人との関係、理性と信仰との関係、システムと生活世界との関係などが問われてきた*1。これらは大雑把に考えて、第三者的なものと当事者的なものとの関係として整理することができるだろう。このような二項対立図式は哲学・思想の歴史の中で頻繁に現れるし、政治的・倫理的な問題としてもよく現れるものである。
こうした二項対立に対して、「媒介者」をおくかたちで三項図式(三幅対、三肢法、トリロジー、トリアーデ)をつくることができる。媒介者は何らかのかたちで第三者と当事者とをつなぐものである。すなわち、第三者が当事者のあり方を知るか、もしくは逆に当事者に第三者のあり方を知るために必要なものである。媒介者・仲介者があることで、はじめて第三者と当事者とがつながることができる(つながりが担保される)のだが、一方で媒介者があるために、第三者と当事者とのつながりが制限されてしまっているという側面が注目されることになる。
このような三項図式を第三者Aと当事者Cをつなぐ媒介者Bというかたちで、A→B→Cと表すことにしよう。その歴史的な事例を幾つか挙げれば、次の通りである。
A | → | B | → | C | |
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〔自由主義神学〕 | 神 | → | キリスト | → | 人 |
〔 批判哲学〕 | 物自体 | → | (感性+悟性) | → | 表象 |
〔言語相対主義〕 | 実在 | → | 言語 | → | 主体 |
自由主義神学の父と呼ばれるシュライエルマッハーによるキリスト教の義認論*2によれば、人類(C)は神(A)からの贖いを受けるために、キリスト(B)を媒介としなければならない。キリストを通じてのみ人類は贖いを受けることが可能だと考えられているのである。また、カントの批判哲学においては、物自体(A)を我々(C)が認識するのは、感性及び悟性(知性)のフィルター(B)を通じてであって、直接に物自体を認識することは不可能だとされる。すなわち、私たちは空間・時間という形式において世界を表象せざるを得ないし、その表象を(カントが人類に普遍的と考えた)悟性的カテゴリに分節化して捉えざるを得ない。さらに、二十世紀の「言語論的転回」以降の言語相対主義についても構図は同様である。ソシュールを初めとする構造主義言語学を援用した結果、実在世界(A)をどのように捉えるかは言語(B)依存的だが、その言語のあり方(分節の仕方)は全く恣意的である。言語をメガネに例えれば、私たち(C)が実在をどのように認識するかは、私たちがどのようなメガネをかけているかに依存する。そしてこのメガネは決して外せないのである。
二項対立に対してこのような三項図式が提出されるか、され得る基盤があるときに、A→B→Cの三項のいずれか二項を同一視する可能性が現れる。つまり、三項図式のいずれか二項を同一視することによって、逆に二項対立に戻そうと考えることが可能になるのである。三項図式において考えれば、形式上はAとBとの同一視、AとCとの同一視、BとCとの同一視の三つのパターンが考えられる。上記のキリスト教・批判哲学・言語主義の三つの歴史的事例に即して考えると次のように整理することができるだろう。
A→ B → C | 批判哲学 | 自由主義神学 | 言語相対主義 |
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(A= B)→ C | 大陸合理論 | 仮現論 | 強い言語主義 |
A→(B = C) | 英国経験論 | エビオン主義 | 思考=言語説 |
B →(C =A) | ドイツ観念論 | 神秘主義 | ‐ |
(A= B)→ C | 大陸合理論 | 仮現論 | 強い言語主義 |
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A→(B = C) | 英国経験論 | エビオン主義 | 思考=言語説 |
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B →(C =A) | ドイツ観念論 | 神秘主義 | ‐ |
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二項対立の外――四項図式への拡張
当事者と第三者との二項対立と類比が可能なものについては、媒介者を入れてやることによって三項図式に落とし込むことが可能なことを前節では確認した。読者の方には既存の二項対立について、上記の二項対立にパラレルなものとして考察することを試みてほしい。
しかし、この三項図式の外部を考えてみることも可能である。すなわち、当事者と第三者との二項対立が起こる以前のあり方(唯一の起源)、そして二項対立を両立させながら複数化によって対立を統一するという対立以後のあり方である(起源の複数化)。言い換えれば、対立未発生の素朴で外部や対立を意識しない段階(α、アルファ)と排他的になる部分をはっきり分割してしまって原子論的な統一と数多化をはかる段階(ω、オメガ)である。
下記に例を挙げておいた。α→(A‐C)→ωのように示してある。
α | → | ( A ‐ C) | → | ω | [ αの数多化] |
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起源的実在論 | → | ( 相対主義 ‐ 絶対主義) | → | モナドロジー | [絶対の複数化] |
全一性 | → | ( 可能性 ‐ 現実性) | → | 並行世界論 | [世界の可能化] |
直観 | → | ( 形式主義 ‐ 内容主義) | → | 原子主義 | [存在の関係化] |
<私> | → | ( 他者 ‐ 私) | → | <他者> | [内面の社会化] |
第三の今 | → | ( B系列 ‐ A系列)*3 | → | 時間多元主義 | [時間の複線化] |
大ボケ | → | ( 問答 ‐ 不立文字) | → | 多言語化 | [意味の無効化] |
民族主義 | → | ( 自由主義 ‐ 共同体主義) | → | 自由至上主義 | [人民の自由化] |
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家父長制 | → | ( 役割主義 ‐ 個人主義) | → | 多重人格主義 | [単位の断片化] |
共感・同情 | → | ( 第三者性 ‐ 当事者性) | → | 当事者主権 | [現場の特権化] |
民族宗教 | → | ( 俗権 ‐ 聖権) | → | 政教分離主義 | [宗教の自由化] |
男女分業 | → | ( 男性 ‐ 女性) | → | ジェンダー | [性別の相対化] |
素朴実践 | → | ( 理論 ‐ 実践) | → | 批判的実践 | [実践の洗練化] |
信仰的感情 | → | ( 合理主義 ‐ 神学) | → | 心理主義 | [信仰の社会化] |
【美醜/文化論/芸術論/美学】
宗教芸術 | → | ( 観賞 ‐ 表現) | → | n次創作 | [芸術の近代化] |
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上記の例の中で、たとえば形式主義と内容主義との対立を考えてみよう。アリストテレスは宇宙において形式(形相)と内容(質料)との対立があると考えた。椅子というあり方(かたち、形式)に対して木材は材料の位置にあり、これは内容的・実質的である。しかし、木材もまた一定のかたち(形式)に切られているのであり、まだ切られていない樹木に対しては相対的に形相の位置にあると言える、というのである。では果たして世界は究極的には形式によって埋め尽くされているのか、それとも形式に還元できない質料的内容的な実質が存在するのだろうか。
この問題に対する一つの回答(ω)として原子論的なものがある。すなわち、或る形式と内容とを持った粒子がありこれはそれ以上分割不能なものとされる。そして宇宙はこの粒子の組合せ・構成によってできているとする考え方である。内容の存在を認めながら、形式についても多数の粒子による構成で解決をはかる。このように二項対立の両立をはかりながら、数多化(この場合は形相と質料の統一体である粒子の数多性)によって解決をする道があるわけである。
また、哲学的にはこの問題以前に遡って形式と内容とが未分の状態(α)を想定することもできるだろう。形式主義の極北に至って、すべては形式に過ぎないと考えたり、内容主義を極端に考えて、すべての源泉を形式以前の内容に求めていくとこのような立場に至る。すなわち、そこにおいては形式と内容という区別自体が無意味になるのである。
直観 | → | ( 形式主義 ‐ 内容主義) | → | 原子主義 | [存在の関係化] |
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一方、この対立に対する原子論的解決(ω)は、人々の共通の利害に基づいて共同体自体を分割してしまう策である。「何もかも自由でいい」と考える人もいれば、「何もかも自由と言うわけにはいかない、或る程度は共同体によるパターナルな介入も必要だ」と考える人もいる。後者の間でもどんな場合にどの程度の介入を許すかは人それぞれである。そのように考え方の違う人々が同じ共同体にいるから衝突(二項対立、AとCとの対立)が起こる。
したがって、共同体に対する考え方の数だけ共同体を分割して利害の衝突を減らしてやればよいのである。分割された共同体は他の共同体とは断絶し、無関心になる(或る側面からみれば、これはそれぞれαに回帰しているとも言える)。このように小さなコミュニティへの分割によって自由主義と共同体主義との衝突を緩和することができるだろう。この考え方は政治哲学ではリバタリアニズム(自由至上主義)と呼ばれている。
民族主義 | → | ( 自由主義 ‐ 共同体主義) | → | 自由至上主義 | [人民の自由化] |
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一方、A系列とB系列との対立から生まれる様々な時間観について、原子論的な解決をはかる場合は時間論上の文化相対主義とでも言うべき立場(ω)をとることになるだろう。いかなる時間論的立場もそれぞれに尊重されるべきであり、衝突しないように断絶させておくのがよい、というわけである。
第三の今 | → | ( B系列 ‐ A系列) | → | 時間多元主義 | [時間の複線化] |
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上記図式にあてはまらない三つ組・四つ組はあるか
どんな図式論・類型論にも限界はある。上記の図式も万能ではなく、整理しきれない例、あてはまらないものがある。具体例を挙げておこう。
〔順序的媒介性〕古代→中世→近代(近代は古代の復活を企図する)/始め・なか・終わり(劇の構成)
〔価値的独立性〕真・善・美/幸福・自由・美徳/政治・経済・文化(いずれの範疇も独立である)
ただし、当てはまらないものはあることが直ちに実用性を棄却するものではない。思考の癖や型はその人の精神生活のあり方に役に立つようにチューニングされるものだが、それが必ずしもいつでもどこでも誰にでも当てはまるとは限らない。上記図式の限界を批判的に明確にしていくことを今後の課題としたい。