2010-07-31読書会用資料『教育の職業的意義』まとめ
本田由紀『教育の職業的意義――若者、学校、社会をつなぐ』(ちくま新書、2009)のざっくりまとめ〜。雑なので随時改訂します……。
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0.あらかじめの反論
本書は主に学校教育の「職業的意義」を回復することが今必要であると主張する。
【批判1:不要論】教育に職業的意義は不必要。
教育界と産業界の両方から出る主張である。
教育学教育は独自の理念を追求すべきであり、教育を仕事と関連付けることは教育にとって堕落である。
産業界産業界にとって教育の効果は期待できない。「地頭」「素直さ」がよければ充分である。
【反論】筆者は労働者の立場から「教育の職業的意義」が必要であると主張する。
不要論が成り立つのは、学校教育以外で、仕事に必要な知識・技能を身につける場が社会の中に成立している場合だけである。しかし、この条件は現代日本では次第に当てはまらなくなっている。だから、職業教育の少なくとも一部を学校教育が担当するようにしていくべきである。
教育という社会的事業には年間約17兆円のコストがかけられている。この莫大なコストを「人格形成」だけのために費やせる状況ではない。学校教育は雇用者に<抵抗>するための知識、及び仕事上の要請に<適応>するための技能・知識の両方を若者に対して与えるべきである。
【批判2:不可能論】職業的意義のある教育は不可能。
産業界で要請される技能・知識の変化が速過ぎるため、教育制度がそれに追いつくことは不可能である。また、教育は本質的に抽象的で形式的な知識を教えるため、複雑で実践的な仕事の世界の現実を教えることは不可能である。
【反論】仕事の世界からの要請に完璧に一致するものの提供を教育が目指す必要はない。念頭においているのは、飽くまでも後の知識や技量の向上の基礎となるようなものである。すなわち、特定専門分野においての根本的・原理的な考え方や専門倫理、歴史や現状、課題・展望を俯瞰的・相対的に把握可能とするような教育である。それは一定の専門的アウトラインを備えていると共に、柔軟な発展可能性や適応可能性があるような教育である。
このような教育の職業的意義を表現するために「柔軟な専門性(フレクスペシャリティ、flexpeciality)という概念を提唱する。
【批判3:不自然論】職業的意義のある教育は不自然。
特定の職業分野と結びついた進路を早期に選択させることは、学習者の自然なニーズに反したものである。そうした進路選択は先延ばしさせるのが自然である。
【反論】モラトリアムの方が不自然である。なぜならば、著者が接した若者たちは就職活動を始める時期になって初めて選択に直面し、過去に選択経験がないために立ちすくんでしまっていたからである。そうであれば、保護されている学校教育の段階で選択の練習を積む方が有益で「自然」だろう。実際、多くの若者自身がそれを望んでいる。ただし、その際の制度的条件として、進路選択の節目ごとに「選び直し」が可能になる仕組みを確保しておくことである。
1.なぜ今「教育の職業的意義」が求められるのか
・若者の働き方に関するデータは、次の二つを示している:すなわち、
の二点である。
#なお2010年1-3月時点で15-24歳の若者(在学者除く)のうち、非正社員は男性24.9%、女性37.4%。
【参照】統計局ホームページ/労働力調査(詳細集計) 平成22年1〜3月期平均(速報)結果
非正社員の若者の苦境をまとめれば、次の五点である:
- 雇用を容易に打ち切られることが多い
- 賃金が正社員よりも顕著に低い
- 一旦なると、安定的で将来性のある仕事に就くチャンスが限定される
- 教育訓練・社会保険・安全管理・福利衛生など様々な面で悪条件である
- 「世間」から軽蔑的な視線を注がれがちである
一方、正社員も(1)賃金上昇率の低下と並行して(2)長時間労働化が進行している。
【参照】総務省 平成19年就業構造基本調査
・1990年代初頭以降の日本社会では正社員・非正社員それぞれが別の意味で苦境に置かれている。
正社員の世界は「ジョブなきメンバーシップ」という原理に支配されている。すなわち、ジョブ=職務の範囲や量が明確でなく、メンバーシップ=企業組織に所属することのみについて雇用契約を結んでいる場合が大半である。職務の輪郭が曖昧で仕事量の歯止めが実質的に存在しないため、長時間労働につながりやすい。また、正社員の場合、雇用保障と引き換えに、雇用者が「包括的人事権」を手にしている。そのため、部署や勤務地といった仕事の質に関わる部分についても、正社員は権限が小さい。
一方、非正社員の世界は「メンバーシップなきジョブ」を原理とする。すなわち、ジョブは明確な代わりにメンバーシップは希薄である。非正社員の雇用契約は通常有期であり、契約期間が切れれば(切れる前でも)すぐに雇用が打ち切られる。また、正社員並みの職務に従事する非正社員の割合は増加しているが、賃金格差が存在している。
・以前のような成長が望めない状況で企業が正社員個人の価値を市場動向と無関係に決めることは困難。さらに非正社員の場合は適正な市場価値よりさらに低い価格で保障なしに使用される実態があり、公平性が失われている(守島基博)。
・非正社員が正社員の雇用を守る調節弁であると同時に、悪条件を受け容れて働く非正社員の存在が正社員の処遇の劣悪化をももたらすという状況がある。
・非正社員と正社員との垣根を減らし、職務に対して一定の賃金を支払う「職務給」を広めていく必要がある。
・こうした制度的な「上からの」推進だけでなく、労働者の自己主張による「下からの」動きと声が必要だが、その素地が形成されているとは言えない。相対的に不利な立場の者ほど違法な処遇に「泣き寝入り」せざるを得ないのが実情である。
・労働者には権利に関する知識が不足している。
・また、人材形成についても、企業の教育訓練費は減少傾向にあり、企業以外の場で職業訓練の場が必要になって来ている。
・1990年代以降、日本の労働環境は正社員・非正社員を問わず過酷化している。労働・福祉の改革と並行して、労働者に様々な自衛手段を与え、積極的に声をあげると共に仕事に関する優れた能力を発揮できるようにしていくことが不可欠である。
2.見失われてきた「教育の職業的意義」
→明治以降の歴史を振り返る。
戦後日本社会において「教育の職業的意義」の希薄化が生じた条件は二つある。
- 若年層の学歴構成の急激な変化、具体的には高卒進学率急増。
- 経済成長により労働力需要が持続的に高水準を維持したため、企業が内部に労働力を確保しておく必要性が極めて高くなっていたこと。
しかし、少なくとも第二の条件は現在では通用しない。また第一の条件にしても、学歴分布の固定、あるいは大卒者の拡大いずれの方向に行くにせよ「職業的意義」を追求する必要がある。
3.国際的に見た日本の「教育の職業的意義」の特異性
→職業教育の国際比較。
4.「教育の職業的意義」にとっての障害
→「キャリア教育」批判。
5.「教育の職業的意義」の構築に向けて
・教育学批判→政治性、<抵抗>重視の「シティズンシップ教育」のみにこだわるわけにはいかない。
・社会学:労働社会の流動化に対して「職業的専門性」を提案(R.セネット)
→いずれかの職人的な専門性を教育過程で暫定的に身につけ、その後柔軟に隣接分野に知識・技能を拡張できるようにしておくことが大切。「柔軟な専門性」。
・労働環境と自分との関係を良好に保つには<適応>と<抵抗>の両方を学ぶことが必要。
・「戦後日本型循環モデル」は崩壊している:
【戦後日本型循環モデル】教育→仕事→家族→教育→……の三項循環モデル。「教育」によって「仕事」に新規労働力が提供され、「仕事」によって「家族」に賃金がもたらされ、「家族」によって「教育」に教育費用・教育意欲が投下される。政府は形式上循環の外から「仕事」のあり方に産業政策というかたちで介入する。
→「新規学卒一括採用」により教育→仕事間の矢印が太くなり過ぎてしまい、「教育」は未熟なままの学卒者を企業に渡して、実質的な職業能力形成を企業にまかせてしまった(赤ちゃん受け渡しモデル)。
・仕事→家族の矢印は「日本的雇用」下での安定雇用・年功賃金、家族→教育の矢印もそれぞれ高度成長期から自己目的化してしまっていた。
・「教育の職業的意義」の構築にあたっては、高校以上の教育課程において特定の専門性を選択・訓練させつつ、隣接領域や普遍的な知識・技能の習得にも進みやすいような「柔軟な専門性」を育てることが大切である。こうした教育のあり方は専門高校の教育課程において既に存在し、学習者の満足が高くなる傾向があることも知られている。
・上記の教育の職業的意義が有効となるためには、受験制度や労働市場との連携も不可欠である。労働市場の改革として、職種別採用およびその拡大としての「キャリアラダー」である。「キャリアラダー」とは、教育訓練・職務経験年数・職位のマトリックスに即して賃金を設定することである。
「このままでは、教育も仕事も、若者たちにとって壮大な詐欺でしかない。私はこのような状態を放置している恥に耐えられない」。