深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

2012-06-28映画「ドッグヴィル」の解釈

ドッグヴィル」という映画に関する記事を二本書いたので、もう一度まとめる意味で後から考えた解釈も含めて書き綴っておきたい。

ストーリー

大恐慌時代の米国。廃坑となった鉱山跡のそばに「ドッグヴィル」という名の村がある。牧師はおらず、登録料がかかるというので選挙にも行かなくなったという住人たち。退職した父の年金で暮らすトムは「道徳再武装運動」と称して人々の心を動かそうと画策しているがうまくいかない。

或る晩、トムの耳に銃声が聞こえ、村へグレースと名乗る綺麗な女性が逃げてきて、トムはギャングたちからグレースを匿う。トムはこれをチャンスと捉え、グレースを受け入れることで村人たちの意識を高めようとする。しかし、いったんグレースを受け入れたかにみえた村人たちは、グレースを匿うリスクが高まるに連れて豹変していく。

A.政治的な解釈

米国のリベラルを批判した作品であると解釈できる。中立的な政策は欺瞞であり、政治家も含めて誰も超越的な立場に立つ資格はない。トムの「道徳再武装運動」は村人が感じていたように余計なことだったのだ。誰も公平無私の第三者にはなれない。実際は弱肉強食のパワーゲームがあるのみ、というのがこの作品の結論である。

B.倫理的な解釈

何らかの道徳(倫理)が成立するための条件は、思いやりが成立することである。言い換えれば、「相手の立場と自分の立場とを交換して考える」「相手の立場を想像する」ことが可能であってはじめて、倫理は成立すると言える。どうして相手の立場と自分の立場とを想像上とはいえ交換できると思えるかと言えば、相手も自分も同じ人間だから、人として大体同じ感受性をもっているから、ということになるだろう。

トムもグレースもドッグヴィルの人々に対して同情し、共感を持てるはずだと信じていた。しかし、実際にコミュニケーションを重ねてみて、どうしようもない相手である。すなわち、「感受性が全く違う」「立場の交換ができない」ことにグレースは気がついた。グレースとドッグヴィルの人々との間を通約できるような倫理は無かったのである。倫理が介在しない他者は宇宙人のようなものだ。後はやはり、力の衝突があるのみである。最後にグレースが犬に接するシーンがあるが、犬はむしろ最初から倫理と関わらない、倫理的な期待がない世界に生きている。だから、ドッグヴィルの人々に比べれば自己欺瞞がないだけマシ、ということになるのだろう。

C.宗教的な解釈

牧師がいない村を舞台にしていることからもわかるように、信仰が廃れたことが背景にある。そもそもキリスト教は原罪を説き、贖罪と救済を謳うものだが、原罪とは神から独立に善悪を判断できるようになってしまったことだという解釈がある。当初、グレースは原罪を背負っている。彼女は何が善く、何が悪いことかを知っているつもりでいるのだ。これが彼女の「傲慢」である。すなわち、傲慢であることと原罪があることとは等しい。しかし、最後の場面に至って、彼女は原罪を放棄する。したがって、もはや自分で善悪を判断しない。いや、正確には、超越的な善悪、宗教的な善悪などは判断せず、彼女自身の感覚での善悪を判断するという切り替えが生じる。彼女は原罪を放棄し、キリスト教的な倫理を捨て、エゴイズムに至るのである。

エゴイズムという点では犬もまたそうである。彼女は同じ利己主義者である犬に対して、キリスト教的ではない「愛」を示したと解釈できるだろう。

参照:
映画「ドッグヴィル」鑑賞
恩は仇で返せ――「ドッグヴィル」と「マンダレイ」の感想