深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

2010-09-23同一性と7つの哲学

先日8月19日の哲学討論会(第49回京都哲学道場*1)で私=深草が発表に使用した原稿を挙げておきます。


下記原稿に付いては一部用語(「超越論的」の解釈など)の曖昧さも指摘されましたが、一旦そのまま挙げておきます。大まかな内容としては「哲学の古典的な諸立場を筆者なりに七つにまとめて、その間の論理的な関連を記述。ゲームブックハイパーテキストのように、立場から立場への移り行きの履歴・ログを哲学史として創造・再構成する可能性を示した」というところです*2。あるいは、これらの諸立場をキャラクターとして見立てたり、物語の枠組みのタネに考えてみるのも一興かと思っております。


同一性と7つの哲学

はじめに――哲学の構造

哲学がどのようなものであるか、については大いに意見が分かれるのが常である。しかし、どう答えるにせよ、「哲学」には日常的な意見や所感や科学、芸術とは異なる何らかの特徴があって、それはとりわけ「考える」ことの中にあるように筆者は思っている。つまり、「考える」ことは私たちの日常であれ、何らかの専門的な思惟が求められる局面であれ、不可欠なときが多く、ありふれているにしても、特に哲学と呼ばれる場合にはやはりそれなりに特徴的な考え方をしているものだと思うのである。
では、具体的にどのような考え方が「哲学的」なのだろうか。その特性を直截に独断・指摘することは困難だが、筆者が幾つかの哲学的立場を取り上げて、その間の連絡・関係を示すことによってひとつの構造を示すことができるだろうと思う。やや具体的に言えば、およそこういうふうに考える立場Aがあって、それについては批判が幾多もあるが、この批判の場合は論理的にみてBという考え方に至るだろうし、あの批判の場合ならCという見解に近づくだろうというふうに、類型的な哲学的立場の間の移動の構造を示すことで、哲学上の幾つかの立場に相対的な位置関係を与えることができるだろう。たとえば、或る種の「思考の堂々巡り」のようなものを分解し、限られた諸々の立場の間の往復ないしは循環的な移動として、俯瞰して考えてみたいということでもある。もちろんここで「すべての哲学的立場」を網羅することができたなどとは思わないので、「こういう立場」が捉えられていない、とか、私の哲学観において本質的な側面が等閑視されているといった指摘はあると思う。このような図式主義やメタ哲学的な考え方それ自体の本質的な限界や意義についても検討の余地がある。

目次

  • はじめに――哲学の構造
  • 第一章 対立の相
    • 1.違い先行派
    • 2.同じ先行派
    • 二律背反・無限後退・堂々巡り・水掛け論
  • 第二章 調停の相
    • 3.不可知論派
    • 4.原子論派
    • 調停は有用であると共に問題の本質を隠蔽する
  • 第三章 起源の相
    • 5.超越論的同じ派
    • 6.超越論的違う派
    • 7.神話派
    • 語り得ないものと夢想転生
  • おわりに――哲学偽史もしくはタラレバ哲学史としてのメタ哲学と伝統の再創造

本稿では、筆者が哲学的な考え方だと思うものの「構造」を特定の切り口から記述していく。だが、まったく内容がなく構造だけを記述しても伝わり難くつかみ難いものになるので、一つの問いに沿ってこれらをみていくことにしよう。
今回は「同一性はいかにして可能であるか?」、言い換えれば、同一性という抽象的概念が成立するための必要条件ないしは基礎についての問いを取り上げる。哲学は様々な抽象的な問いを取り扱うけれども、その中で最も抽象的なもののひとつはこのような同一性に関する問いである(もちろん抽象的な問いがすべて同一性についての問いに逢着するわけではないだろう。というのは、抽象化は様々な属性を擁した具象的なものから任意の仕方で捨象を行なうものだから、必ずしも一本道ではないからである)。この問い方自体が非常にカント的な設定の仕方であって、筆者の学習歴のローカルな面を免れないものではある。しかし、暫定的なこの問いの地平の中でどこまで哲学的思考が続いていくのか、あるいは、大地の端を求めてまっすぐに旅して行っていつの間にか元の地点に戻るという具合に堂々巡りに陥るとしたらそれはどういう道筋・パターンをたどるのか、を一旦洗い出してみることは叩き台として無駄ではないはずである。
以下の記述では、同一性に関する問いへの応答として大雑把かつ恣意的に都合七つの哲学的立場を想定した。もちろん各立場の中でも様々な派閥があり、基本的には一つの立場に安住する者もいれば、批判を展開して他の立場に移る者もいるであろう。また、批判するにしてもどのような点を不満とし、衝くかによって行き先の立場は違ってくるであろう。喩えて言うならば、以下の記述のやり方の背景にあるのは、アドヴェンチャーゲームないしはゲームブックのような考え方である。すなわち、そこでは枝分かれしたストーリーを選択肢によって選び、ときには円環的な道筋の中で何度も同じ場面や同じ場所に戻ってきたりすることがある。また、幾多の遍歴を経てひとつのエンディングに達するとしても、それは複数あるエンディング・複数の可能性のひとつに過ぎない。その意味では、一見相容れないようで、どちらを正しいとするのかを迫るように思われる哲学的諸見解を可能性の相において俯瞰してみたいという筆者の欲求の発露でもある。
上記および表題ではで七つの立場としたが、まったく等しい資格において七つの立場が並列できるとは思われなかったので、以下では大きく「対立」・「調停」・「起源」の三つのグループに分けてみていくことにしよう。

第一章 対立の相

まず「同一性の必要条件とは何か」という問題を「対立」において捉える考え方からみていくことにしよう。「対立」において捉えるとは、探求する概念をその反対の概念との対立において考えるということである。言い換えればいわゆる二項対立的な考え方であり、肯定・否定を争う政治的対立や、右を立てても左を立てても筋が通らない二律背反の問題などが存在する。哲学的議論に限らず散見される定番の筋書きは、対立し相争う二つの立場はお互いがお互いを補い合う関係にあることを見出すというものである。争うためには一定の地盤・土俵・地平・ルールが共有されていなければならず、対立する二つの立場は飽くまでもその基礎のもとで自分の領分を守らざるを得ないからである。

1.違い先行派
同一性、つまり「同じ」の問題について考えるとき、二項対立で考えればその反対として「違い」=差異について考えることになる。「同じ」が先か「違い」が先か、という問題設定の仕方である。抽象的ではあるが、次のような理屈を類型的としよう。
たとえば、あのミカンとこのミカンが同じであるというにせよ、昨日の自分と今日の自分が同じであるというにせよ、明けの明星と宵の明星とが同じであるというにせよ、とにかく「何かと何かが」同じであるということである。このとき、何かと何かはとにかく区別できる二つのことでなければならない。結果的に二つが同じものに帰されるにしても、とにかく何か違いを見出すことが可能な最低二つのもの・ことがあって、その後に「同じ」であるということが成立するはずである。
つまり、「同じ」であることを見出す機会が無数にあるとしても、そのすべてについて、何らかの「違い」が先行するはずなのだから、「違い」があることは、「同じ」であることにいつも着いてくる不可欠な条件であるはずだ。
「同じ」に対して「違い」の先行を主張するこうした立場は、具体的には、客観的な世界の中に無数の違いを認める経験論的な考え方となって現れる。たとえば、私たちが自然の中で植物や動物を分類できるのはなぜか、と考えたとき、そこでは客観的に無数の違いが先行して自然の中にあったのであって、私たちはその中に同一判断を持ち込んだに過ぎないというわけである。まるで違ったものの寄せ集めに過ぎない世界の中から比較的に似ている部分に注目して「アレとコレとは同じ(種類)だ」といった具合に判断を行なうのである。
このような考え方を「違い先行派」と呼んでおこう。「違い先行派」は次に示す考え方と抗争関係にある。

2.同じ先行派
「違い先行派」の考え方はこの立場によって否定される。それは次のような理屈である。
同じことを吟味すると常に違うことが先行するというけれども、これは一方的でアンフェアである。違うということも同様に検討する必要がある。つまり、ジョンとピーターが違うというときには、「何らかの点で」違うのであって、比較する二項をはかる共通の観点、同じものさしがなければならない。ジョンとピーターは両方同じ人間であるとか、同じ生き物であるとかいうことを前提してはじめてどこが違うかを議論できるはずなのであって、これはおよそどんな違いを論じる際にも妥当するように思われる。つまり、何らかのものさし、何らかの共通性、何らかの同一性を設定して初めて「違い」が見出されるのであって、「同じ」の先行が「違い」が存在するための必要条件である。逆ではない。「同じ」に「違い」が先行するというのは誤りである。
哲学史上では、パルメニデス=ゼノンや合理論と呼ばれるような考え方においてこの類型がみられる。根本的な唯一の枠組み(神や我など)をおいて、客観的世界の差異はその枠組み(共通性) の下で初めて現れる。世界は一種類の素材からできているといったイメージの一元論はこの立場に属する考え方である。
この考え方を「同じ先行派」と呼んでおこう。

二律背反・無限後退・堂々巡り・水掛け論
「違い先行派」によれば、「同じ」の必要条件は「違い」であるという。すなわち、「同じ」があれば、それに対応する「違い」が必ず存在する(数学的には「同じ」がある⇒「違い」がある)ということである。一方で、「同じ先行派」によれば「違い」の必要条件は「同じ」であるという。すなわち「同じ」があれば、それに対応する「違い」が必ず存在する(「違い」がある⇒「同じ」がある)。つまり、数学的には「同じ」と「違い」は同値(「同じ」⇔「違い」)であって、一方が他方なしには存在し得ない相互補完的な関係にある。
しかし、問題に具体的に応答しようとすれば「なるほど同じあれば違いあり、違いあれば同じありか」などと言っているわけにはいかない。ジョンとピーターという違いには人間であるという同じが先行するかもしれない。しかし、ジョンが人間であることはポチが犬である(人間でない)という外部との違いを前提して初めて成り立つ。以下、ジョンもポチも動物(同じ)→動物ジョン対植物トリフィド(違い)→ジョンもトリフィドも生物(同じ)→生物ジョンは鉱物ではない(違い)→ジョンも鉱物も物質で(同じ)……と続いて行く。つまり、特定の個物について考えるときに、同一性の認定、その背景にある相対的外部との差異の認定、相対的外部との同一性の認定、さらなる外部との差異の認定……とみていくと理屈の上では無限後退に陥ってしまう。無限に遡れるということは「始点が無い」「始まらない」ということで、これに満足する人もいるがしない人もいる。
しかし、不満であるとすれば、一番先にあるのが「同じ」なのか「違い」なのか決断しなければならないが、上記に示したように「同じ」が先であると考えても「違い」が先であると考えても等しい権利で反駁される。このように二項対立のどちらに立っても等しく上手くいきそうにない状態を「二律背反」と呼んでおこう。
理想的・類型的には上記のような二律背反に至るはずであっても、一般に、真偽・善悪・美醜・聖俗・利害などの二項対立は相対的で相補的なので、日常的な話し合いや議論の場では、事実の認定や変数(パラメータ)に困難があったりしてそこまで至ることは少ない。自分に有利な方に味方したくなったり、弱い方を弁護する判官びいきで考えてしまうこともあるだろう。
議論が二律背反が誰の目にも明らかになるまで煮詰まることは稀であるにしても、客観的・第三者的にみて話が「水掛け論」だとか「堂々巡り」と抽象的に評される場合、このような無限後退で「自分が先だ」と争い合っている場合が多いと思われる。この手の議論は実践的にはまったく非生産的なので、もちろん敬遠される運命にある。
日常的な話し合いなどであれば、それなりに妥協や思考停止が行なわれて争いを収束させることもできるだろうが、特に哲学の場合はどうだろうか。二つの対立する立場を調和させるような第三の立場を考えることはできないだろうか。
少なくとも二つの途がある。ひとつの途は攻め、ひとつの途は守りである。攻めの立場を「調停」と呼んで次の章で説明し、守りの立場を第三章で描写しよう。

第二章 調停の相

「ニワトリが先かタマゴが先か」といった風情の「違い先行派」と「同じ先行派」の不毛な抗争にどのように決着をつけるべきか。筆者が後述の「守りの立場」に対して「攻めの立場」、あるいは建設的・当事者的解決と呼ぶ二種類の立場が考えられる。二つの立場はそれぞれ、二項対立の相において起こる争いを暫定的であれ調停・統一するものである。

3.不可知論派
一番先なのは「同じ」なのか、それとも「違い」なのか。一つの見解は「わからない。むしろわかる可能性が無いのでわかろうとする努力は無駄である。だから辞めてよい(せいぜい祈る程度にせよ)」という穏健な立場である。
言い換えれば、客観的な世界のあり方を不可知なものとして、一番先なのが「同じ」なのか「違い」なのかは等閑視する。その上で、私たちが考えていることや私たちが知ることを俎上に載せて、「同じ」と「違い」の争いは究極的には私たちが客観的な世界をどう受け取るかに依存する(制約される)と考える。私たちは私たちの思考・認知の枠組みの範囲内でしか考えたり知ったりすることはできない。その点では共通の枠組みを置く「同じ先行派」に親和的であるが、一方でその認識の枠組み自体に批判的で、その「外部」を想定する点では「違い先行派」に親和的であるとも言える。
このような立場を「不可知論派」と呼んでおこう。

4.原子論派
不可知論は、言わば主観と客観の間に媒介者(メディア)を立てて緩衝剤(クッション)にすることで「違い先行派」と「同じ先行派」の対立にひとつの決着をつけた、ということができる。一方、クッションではなく細分化・断片化によってこの対立に処することもできよう。すなわち、究極的な単位としての「原子」を暫定的であれ設定するという方途である。バリエーションは幾らかあり得ると思うが、基本的な筋書きは次の通りである。
宇宙に存在するすべてのものは、時空上の位置 以外によっては区別を見出すことができない単純な粒子(原子)によって成立しているとしよう。それらは位置によってのみ相互に差別がある一方で、究極的な粒子であるという点においてすべて同じ類に属するという共通性を持つ点で同一である。ひとつひとつの粒子個体において「同じ」と「違う」が同時に背負わされており、この「統一」は設定上それ以上分解したり遡ったりすることができないとされている。私たちが普段目にする事物はこの原子が一定の仕方で時空上に配置されたものに過ぎない。
このような原子の存在は仮定的なものに過ぎないが、とにもかくにも「同じ先行派」と「違う先行派」の争いに一方的でない解決策を与えられる利点がある。また、不可知論と異なり、「知ることができないが想定しなければならない」ような疑わしい理念的客観世界を考える必要もないし、原子は定量的に扱える(はず)なので計算や数学的真理を適用するための理論的基礎となって便利である。
この立場においては、私たちが普段目にするようなリンゴとミカンの「違い」は厳密には原子の総数と配置の構造に還元される。リンゴもミカンも「同じ」果物であるということも結局は原子の配置に共通性があるということに帰着するので、最初の仮定さえ問題なければ非常に明快である。
このような立場を「原子論派」と呼んでおこう。原子論派には実践的にはさまざまなメリットがあるが、一方で大きな課題のひとつとして「具体的に何を原子として認定するか」という問題がある。たとえば社会制度で言えば、社会の中で家族や個人は一種の原子として捉えられ、ひとしなみに扱われるように思われるし、実際そうするのが行政管理といった実務上は便利なのであるが、中には例外的なもの・病的なもの・異常なものがあったりして、果たして哲学的な原子の設定というものがそもそも可能であるということは憶断ではないかと疑わせる場合があろう。

調停は有用であると共に問題の本質を隠蔽する
違い先行派と同じ先行派と両派にそれぞれ配慮することによって、不可知論派も原子論派も統一的解決を試みるものである。いずれの解決にも数多のバリエーションが想定できるし、また実践的な場面では更新を迫られることもあるであろうが、いずれにせよひとつの理論的地平としてそれなりに持続可能なものである。
だが、これらの一見穏健な調停路線に不満を漏らす立場もあり得る。そのような立場の人は次のように言うであろう。「調停は一種の暴力革命である。それは問題の本質を転倒させ、隠蔽し、世間的な価値観に迎合し、その場しのぎの解決を与えるものに過ぎない」。急進的な立場をとるならば、調停は一種の欺瞞であり、哲学的子供騙しであると叫ぶであろう。
先に筆者は調停路線の二つの立場を「攻めの立場」と形容したが、それは調停・解決に積極的という意味であった。一方で、調停・解決に消極的という意味で「守りの立場」というべきものが存在するが、これはしかし、別の意味では上記に記したように急進的でもある。そうした立場は、対立を統一によって解決するのではなく、先鋭化・急進化によって言わば無化しようとするのである。そのような諸立場を「起源の相」というグループに入れて次の第三章で描写しよう。

第三章 起源の相

違い先行派と同じ先行派の二項対立に対して、次のように問うこともできるだろう:「そもそも二項対立そのものが一種の『違い』に過ぎないのではないだろうか?」。つまり、二項対立の構図を維持したままでどちらが先であるかを論じたところで、既に最も基礎的で重要な点で問題が隠蔽(転倒、革命)されてしまっていると「起源の相」においては考えるのである。「違い」が先行すると考えるにせよ、「同じ」が先行すると考えるにせよ、その究極的に一番先にあるものを「違い」または「同じ」という名前で呼ぶことそのものに問題がある。
たとえば一番先にあるものを「同じ」と呼ぶのであれば、それは言葉の上では何らかの「違い」に対応するもの(相補的に過ぎないもの・外部を持つもの)に過ぎないように誤解されてしまう。一番先にあるということは絶対的・無前提的・完全独立的であるということであって、それは二項対立で捉える以前のもの、すなわち「起源」の相におけるそれである。そしてそれを二項対立で捉えた時点で問題は隠蔽されざるを得ない。このように二項対立化(客観化・言語化)によって隠蔽転倒される性質のことを「超越論的」と呼んでおこう。
この「起源」グループにおいては三つの立場を描写しておく。

5.超越論的同じ派
上記でも言ったように、まず「同じ」と「違う」という対立図式そのものが問題視すべきである。そこで次のような考え方が登場し得る。
そもそも「同じ」とか「違う」は本来物理的な世界、モノの世界なものに関する区別であろう。基準さえしっかり定義されていれば、あの物体とこの物体は同じか違うか、と問うことは日常的に考えても意味のあることである。しかし、今は高度に抽象的なものとして、一般論として論じているのであってみれば、モノの論理である「同じ」「違う」をみえないもの、たとえばココロにまで拡張するのは不当なのではないだろうか。具体的には「あの人とこの人は同じだ」などと述べるとき、それが身体的(=モノ的)な運動の傾向に還元できるならばきちんと判断可能かもしれないが、しかしそれが実は或る内面的傾向性のような心的なもの、みえないものについての言明だとしたら、それはモノの論理をココロの論理に押しつけた ものであって、せいぜい比喩にしか過ぎないと言わざるを得ない。
超越的に言うなら、この世界はひとつのココロから開けているのであってそれ以外ではない。その視界の中で事物や他人が登場し、「同じ」とか「違う」が問題にされるのである。そして、この内側の「同じ」は実は「ひとつの心から開けている」という起源的事実、すなわち超「同じ」とでも言うべきものに基礎づけられていなければならない。超越論的な同じならぬ同じさがまず絶対的にあって、その内部において初めて二項対立そのものが可能になるはずなのである。
このように「同じ」を絶対化した末に同じを超えた地点にたどりつく立場を「超越論的同じ派」と呼んでおく。

6.超越論的違う派
二項対立そのものが問題だとしても、超越論的同じ派とは違った行き方もありそうである。たとえば次のように進めることもできよう。
「違う」とか「同じ」とか言うのはモノにおける差異と同一性である。しかし、このようなフィジカルな世界にはみえないもの、意味的なもの、メンタルなものが登場する余地はまったくない。世界は因果的に閉じており、物理的世界は独自の運動法則性によって完結したものである。ということは、つまり、このみえる物理的世界のうちに何かしら心的なものが位置付けられようとられまいと、物理的世界の具体的な運行には何の影響も与えないということである。しかしながら、そのような物理的なものがあってはじめて我々のココロが発生し、そこにおける二項対立も生まれたはずなのだから、物理的世界の中に何らかの意味でココロを位置づけられなければならないが、それは結局物理的世界の中のメカニズムの一貫として「違い」の中に位置づけられなければならない。だがそのような「違い」は二項対立以前の絶対的なものである(この設定であれば時間的にも論理的にも前である)。
こうして「違い」の側――モノの論理の側を絶対化した末に到達する地点を「超越論的違う派」と呼んでおこう。

7.神話派
超越論的同じ派も超越論的違う派も二項対立以前の起源に遡っている。言わば「革命」以前の世界に対する構想である。二項対立以前であるということは、もはや実証や反証の対象になるような知性的(悟性的)レベルでは無く、むしろ信仰のあり方を語っているのに近い。そして、二項対立を語彙と語彙との違いということに関連付けて言えば、差異の体系としての言語(ラング)以前の世界なのだから、超越論的同じ派も超越論的違う派も言語上では語り得ないことを語ろうとしていることになる(超越的語り)。
これを客観的にみれば、つまり「超越論的違う/同じ派」の論者の発声を耳にする側からすれば、まるで知的にはわけのわからないことを言っていることになる。これは言わば異民族に神話をきかせるようなもので、自分たちの共同体にとって特別な意味を持つ神話もその当事者性を共有しない異民族にとっては単なる物語/虚構に過ぎないのと同様である(もちろん自分の国の話でないとしても、虚構としてはおもしろいかもしれない)。
そういう点では、二項対立以前の「絶対的な世界」を語るのに何もモノの論理とココロの論理などといった特定の世界観を前提にする必要は無いだろう。ギリシア神話を語って「同じ」の起源を話してもよいし、神が天と地をわけたことをもって「違う」の起源と語ってもいい。どちらも同じ程度に意味不明だからである。起源における原子の存在を語るような超越論的原子論派などを考えてもいいだろう。
このような諸立場をまとめて「神話派」と呼んでおこう。神話派は知的アナーキズムと親和的であるかのように思われる。

語り得ないものと夢想転生
超越論的違う派、超越論的同じ派、そしてさらにフリーダムな神話的諸派はいずれも「語り得ない」領域にアクセスしようとする立場である。宗教や習俗といったかたちでこれらの立場の言説は私たちの日常に染み込んでいる一方で、理論的には「語り得ない」側面が強調されて、否定神学と呼ばれたりする。それについて何ごとかを語った瞬間に「それは言語に墜ちてしまっているではないか、二項対立に入ってしまっているではないか」と必ず否定されてしまうような仕掛けになっているからである。
これら起源グループの立場の言説は、眠るときにみる夢(夢想)や前世・来世(転生)を語るのに酷似している。私が今朝見た夢を語り、聴き手がそれを言葉の上では理解した気になったとしても、しかし、言葉の中身・実質的な内容において両者が一致しているという保証はどこにもない(正確に言えば一致不一致の基準すら共有されていない)。夢は絶対的な誤解の相において語られるほかないのである。言い換えれば、そのような語りは「寝言」である。聴き心地のいい寝言はたまに芸術と呼ばれることもある。
一方で、一種の信仰を前提に前世や来世を語る人の言葉を聞く場合にしても、語られた前世の生活や来世の生活というのがその語る当人と一体何の関係を以て現在の人生より前(世)とか後(=来世)と呼ばれるのかは謎である(まったくの別人、すなわち無関係であるからこそ前世や来世としての意義を逆説的に持つはずなのだから)。だから、前世や来世に関する語りもまた無意味でなければならない。それが癒しや気休めになる/ならないを問題にするのは信仰の外にいる人々の語りに過ぎない。
上では、起源グループについて「守りの立場」と形容したが、それはこのグループに属する主張が本質的に対立の外にあるためである。今朝見た夢や前世について語る人にマジで反論する者はいないし、また、文句らしきものを喚き立てることができたとしても、そのような「反論」自体が成立し得ないものなのである。
言わば起源グループの語りは日常的な議論に対して透明人間的であり、いかなる論難からもノーダメージという意味で究極の防御なのである。この奥義が古来から「夢想転生」と呼ばれているのも故のないことではない 。

おわりに――哲学偽史もしくはタラレバ哲学史としてのメタ哲学と伝統の再創造

哲学が求めるところの真理が普遍的でいつでもどこでも通用するような無時間的なものであるならば、真理に歴史はないはずである。しかしながら、哲学史という分野があって専門機関でそれなりに研究されているのは、それが哲学の伝統と品質を担保するからである。学問としての哲学は他の諸科学と同様に先行研究をきちんと踏まえ、当該の問題に関する先哲の文献をすべて網羅・批判した上で自分の所見をつけ加えるのが理想であろう。
しかし、一方で哲学の歴史など無視して論理的に真っすぐ自分にとって重要と思われる真理を独自に探究すればよいという気持ちがあるのも自然なことであり、そうであるからこそそうした放縦を抑制するために大学における学問的な訓練も必要とされるのである。
いずれの立場もそれなりに動機のあることだし、哲学に関心を持つ人は折衷的に対処していることであるが、ひとつの創造的なやり方としては哲学の伝統そのものを抽象的に操作することで再構築してしまうという方法もあるだろう。一体、なぜ地球上の哲学史だけにこだわる必要があるのか、なぜ「現実」の哲学史にこだわる必要があるのかがそれによって試されるはずである。
哲学の究極的目標のひとつは、哲学的伝統を丸ごと偽造し、複数化してしまうことであり、本稿のようなメタ哲学的考察がそれに資する叩き台となれば幸いである。

*1:なお第49回哲学道場は七名参加で、内訳はhiropon(@trevenian)さん、コーゾーさん、@imomushimappuさん、@snooze24さん、めるろ〜さん、TANI_Ro^hei(@Taroupho)さん、深草(@goodmad、発表者)でした(席反時計周り順)。

*2:特に参考文献は明記していませんが、永井均氏の「革命」や山田正男氏の「数学的構造」にやや影響を受けているかと思います。念のために申し上げておけば、これらは大学におけるマトモな哲学の研究からみれば電波・妄想もいいところという類のものですので、飽くまで一トンデモ論考として楽しんで頂ければと思います。もちろんトンデモにムキになって反駁したり対抗するのも一興であります。