深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

2010-07-09そのものの世界

先日の哲学道場駒込ではマイミクのさかた氏が<私>非持続説というのを発表された。時間的に持続する私という実体は存在せず、また私は他人ではないので、現在の経験のみが<私>であるというものである。<私>は過去の私(経験)および未来の私(経験)と接続しないし、他人とも当然接続しない。
http://www.geocities.jp/dhdjr455/shinokyoufu/sonota.html

下記の表では横軸に過去・現在・未来という時間様相、縦軸にA氏・さかた氏・B氏という三人が採られている。このうち現在の経験に当たるのは●だけだとさかた氏は言う。

■■A坂B
過去○○○
現在○●○
未来○○○

※■は単なる埋め草の記号である。

さかた氏は「大脳分割移植の実験」というのを引合いに出すが、これは上記の○と●との区別の際に「記憶」は役に立たない(指標にならない)というだけのものであろう。

【批判】さかた氏はこのことから現在の経験(中央●)が未来の経験(中央下○)に接続しないことを指摘しているが、「接続しない」というのは或る局面で言えるだけであって、別に「接続する」と言っても何ら構わない。


上記の九つの丸の表は実在的な世界、そのものの世界を表したものである。そこに並んでいるとされるのは、過去のAの経験そのもの、現在のさかたの経験そのもの、未来のBの経験そのもの、といった具合になっている。話の前提上、現在の自分の経験の外には出られないことにしておきつつ、その到達し得ない自体の世界を扱っているようにも思われる。だが、それはひとまず置いておこう。また、過去・現在・未来を等価に扱ってよいか、という論点もあるが、それも置いておく。

上記の表を考察するとき、私の表象上には3×3の表が現れる。この表象それ自体は「そのもの」ではない。「そのもの」を表す表を上記の丸が並んだ表とし、それの表象を表す表を下記の三角が並んだ表で表す。

■■A坂B
過去△△△
現在△▲△
未来△△△

縦軸のA列とB列の△は他人の経験に対する観念を表しているし、中央の坂列は私の経験に対する私自身の表象を表している。これらの全体が私の現在の経験の中で生じている。

△の表は私のイメージのあり方を示しているに過ぎないので、論理的には九つの三角でなくてもよい。三角をもっと細かく増やしてもよいし、また減らしてもよい。任意の二つの三角をつないでもよいし、分割してもよい。もちろん三角でなくてもよい(この文章で三角にしたのは丸と区別するためだけである)。つまり、私は私の世界観・時間観・他人観をどのように妄想してもよい。

しかし、いかに妄想してみたところで、結局のところ、「実証」によって一定の世界観が私には強制される。証言よりも物的証拠が優先され、宗教的言説よりも科学的法則の方が優先される。これらの証拠の優先順位や経験を解釈するための規則の優先順位は或る意味では偶然的なものである。しかし、これらのものを偶然とみなすかどうかそれ自体が恣意的であろう。地上では物は上から下に落下するが、そういう現実があって初めて上から下に落下しないという可能性が考えられる。しかし、もちろんそう考えなくてもいい。

私は私の世界観が誤ったときに「実は違ったのか……」と考える。その際に既に証拠や法則に関する上記のような相対化(こうした証拠の優先順位や法則が通用するのは偶然でしかないとする見方)が成立していると、科学的で形式的な検証をすっ飛ばしていきなり九つの丸の世界(純粋なそのものの世界)に飛んでしまう。そうすると、私は純粋な未来自体には到達できないという結論が出るのは論理的な強制である。

しかし、そう考えなければならない理由はない。九つの三角の表の中央下の△(未来の経験)にたどりつくと考えて差し支えない(この世界の経験的法則を信頼するのと同程度に)。ただ、それには誤差があるというだけのことである。誤差のことを考えるときだけ、はじめて九つの丸の表のことを考えるのである。また、九つの丸の表において「未来がない」と述べられても他人からは理解されない。というのも、他人からも自分からも理解できないはずのものがそこに並んでいるからである。したがって、常に三角の表の意味で「未来がない」と理解される/するより他はないが、その意味では常に未来は考えたように「ある」のだから、心配する必要はない。実証されていないだけで天国は存在するし、そこはいいところである。なぜならば、あまりにもいいところなので一度行くと帰る気を失くしてしまうからである。酒はうまいしネーチャンは綺麗なのである。天国は経験的にも無根拠だからない、と主張するのであれば、丸が並んだ世界も同程度には無根拠であろう。


【補遺】丸の表の世界、すなわち自体的世界、内容的世界と、三角の表の世界、すなわち表象的世界、形式的世界との違いについて言えば、その違いは常に形式的な世界の中の差異に短絡して解釈される。形式的な世界の中には証拠の優先順位や規則の優先順位があり、たとえば証言が矛盾しても物的証拠によってケリが着いたりする。しかし、物的証拠が常に優先されるべきかどうかは哲学的には疑い得るし、芥川龍之介の「藪の中」のように相互に明らかに食い違い矛盾する証言のすべてが正しいのが自体的世界の実相なのかもしれない。ただ、そのような非論理的過ぎる自体的世界を想定することは学問としては全くトリヴィアルで、他の妄想よりもそちらを重んじる理由もないので省みられないというだけであろう。