深草の横取り四十萬

何をつくっているのでしょうか

2010-06-30預言者論証

この世界は現実なのか、それとも、誰かによって観賞される虚構世界か?

  • 定義1.「登場人物」と呼ばれる存在者は(存在者自身が属する世界を観賞する)観賞者ではない。*1
  • 定義2.或る世界が虚構世界であれば、その世界に含まれる存在者はすべて、登場人物である
  • 定義3.私はこの世界に含まれる存在者である。
  • 仮定.私は観賞者である(または、そうなり得る)
  • 帰結1.虚構世界には観賞者は含まれない(∵定義1および定義2)
  • 帰結2.この世界には観賞者が含まれる(∵定義3および仮定)
  • 帰結3.この世界は虚構世界ではない(∵帰結1および帰結2)

つまり、私がこの世界の観賞者であれば、またはそうなっているときに限り、この世界は虚構世界ではない現実である。私がこの世界を観賞する超越的な立場にいることによって、この世界が現実であることが保証される。

対偶を言えば、この世界が虚構世界であれば、私は観賞者の立場には成り得ず、観賞者の立場に立ったかのような発言はすべてこの世界の外部に対して失当する。それはあたかも我々が観賞する虚構の登場人物たちが観賞者である我々に言及しようとして見当外れなことを言うようなものである。実際、この世界が虚構世界であれば、この一連の論証めいたものもまったく的外れなものだろう。

また、「私が観賞者であれば、この世界は現実である」というのは、「私が観賞者でないか、またはこの世界は現実であるか、あるいはその両方」と同値である。もちろん私が観賞者でなくてもこの世界が現実であり得るが、しかし、私がいったんこの世界の観賞者であることを自認した以上はこの世界が現実であることをも認めていることになるのである。私が何も観賞していないときはともかく、私が観賞するこの世界こそが現実なのである。

私がこの世界の観賞者足り得ること、すなわち神の眼差しを持ち得ることがこの世界の現実性を担保する。この論証を「預言者論証」と名付けておこう。

*1:たとえば我々が虚構を観賞するとき、虚構世界の登場人物があたかも我々観賞者に言及するような描写を目にすることがあり得るが、そのような虚構世界の住人たちの言明が我々に対して妥当性を担保されることはない。たとえば、映画の中の登場人物がこちら側=カメラ側を指差して「おい、そこの黄色い帽子のお前!」などと発言しても映画観賞している私が黄色い帽子をかぶっているとは限らないし、映画の中で言う「黄色い帽子」と映画の外部世界の黄色い帽子が同じものかどうかは担保されていない。また、ここで言う「観賞者」という語彙は、観賞される世界に属する存在者(メンバ)に付く述語であって、最初から観賞される対象となる世界の外にいて、対象世界を眺めるような者は排除している。